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help リーダーに追加 RSS 磐城の戊辰戦争C植田「八幡山の戦い」

<<   作成日時 : 2008/04/19 21:22   >>

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大分、間が空きましたが磐城の戊辰戦争の続きで平潟奪還作戦の後の話です。慶応4年(1868年)旧暦の6月17日、平潟港に上陸した官軍を迎撃しようとした遊撃隊・磐城諸藩・仙台藩の連合軍は目的を果たせず敗走しました。
前回の記事http://spottedseal.at.webry.info/200802/article_1.htm遊撃隊は関田宿(現在の勿来町)を離れ鮫川を渡り、植田宿を経て新田坂に向かいました(当時、橋は無く渡し舟が交通手段でした。)
画像をクリックすると大きく見れます。撮影機材は、説明が無い限りiosKissX2+Wズームレンズキット使用
鮫川橋からみた大島側
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植田側
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戊辰戦争に先立つ数年前1862年水戸藩の天狗党の乱を鎮圧するために平藩から参加した藩士「松浦翼」が帰路に詠んだ歌の碑が大島側の橋のたもとにある。
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ちなみに下には鮫川橋建設にも関わり、呉羽化学の前身、昭和人絹株式会社 錦工場を誘致した「金成 通」の名前も刻んである。
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現在の鮫川と河川敷
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遠方からも利用者が来るラグビー場。植田の宿泊業にも大分貢献しているらしい。
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仙台兵は植田側に陣を構え、遊撃隊は前軍(人見勝太郎)と後軍(林昌之助忠嵩)が新田峠にて合流して後、深夜に平城へ戻りました。友軍達の不甲斐無さに人見勝太郎と林昌之助忠嵩は、磐城を離れ会津へ向かう事を決意しました。しかし翌18日朝、平藩の老公(と言っても50歳ですが)安藤信正公に対しそれを告げると、信正公と仙台藩南方総督古田山三郎は遊撃隊に対し再度、力を貸してくれる様頼みました。強く望まれた為に断る事も出来ず遊撃隊は磐城に踏みとどまる事になってしまいました。この日、新たな作戦を協議し、18日の夜から翌19日に掛けて平藩兵約200名は平城の東にある笠間藩の飛び地の神谷陣屋(藩の代官所などがある支所的なもの)を攻撃した。笠間藩が西軍(官軍)側についている為に後方からの挟み撃ちを警戒していたためだった。陣屋の笠間藩兵は同じく笠間藩領(現在の四倉町)の薬王寺へ退却した。ちなみに、笠間藩の牧野氏は元々九州延岡藩を納めていたが江戸幕府の覚えが良く京都所司代を任ぜられ領地も又江戸に比較的近い茨城県笠間へ栄転となった。空いた延岡には延享4年(1747)磐城平の内藤氏が移動(支藩の湯長谷藩内藤氏は残った)。一般には内藤氏は10年前の一揆の責任を取らされたと言われているが当時一揆は全国で多発しており10年前の話を持ち出されるのも不自然であろう(と茨城県の郷土史家の著書に書いてありました)。そして笠間に居た井上氏(管理大名といわれる程に空白になった領地を転々としていた。この後は大阪城代・幕府老中など栄転していったエリートであった。)が磐城平へ移動した(10年程で安藤氏と交代)。面白い事に牧野氏も内藤氏も転封を命じられた代の殿様は生涯領地を訪れなかったという。遊撃隊は兵の三分の二を湯長谷藩陣屋(現在の岩崎中学校敷地)
この画像はパナソニックTZ−3で撮影
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に駐屯させた。残り三分の一は平城で休息とし、一日休むと2日勤務のローテーションを組んだ。さてこの頃19日から20日に掛けて官軍側の増援で柳河藩(現在の福岡県柳川市)約300名、備前岡山藩(現在の岡山県岡山市)約300名が平潟港へ到着して先の1000名と合流、その数は1600名程に増えていた。手堅い官軍は増援が来たことで、ようやく行動を開始した。
出羽神社から見た植田の街中・勿来と平潟遠景
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21日には関田に備前兵が布陣。22日には官軍先鋒の薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)兵と備前藩兵が鮫川を渡り大江文左衛門率いる仙台兵と平藩兵約100名を潰走させ植田宿まで進出した。23日夜には暴風雨(台風か?)が吹き荒れ官軍の動きが止まった。この日磐城側にも棚倉城より援軍の仙台兵50名、幕府残党軍の純義隊200名の計250名が到着した。官軍の動きが鈍いとの物見の報告を受け、林昌之助忠嵩は官軍への攻撃を決意した。24日激しい雨の中、純義隊、平兵に遊撃隊の60名の300名程で植田宿へ進軍。純義隊半小隊(約30名)を牽制の為に宿を見下ろせる八幡山へ向かわせ本隊は植田宿へと突入した。植田宿の本陣のあった地点
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八幡山も近くにある。
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しかし、官軍はすでに居らず、もぬけの殻となっていた。この為、植田宿の者が官軍に通じていると判断した純義隊は宿に火を放ちました。実際、近辺の農民は戦後の報酬などの約束で官軍に付く者がおり(もちろん地元側に付くというか強制された者もいたが)中には、そのまま会津まで案内を務めた者もいた。この為に、磐城の戦いでは地元側があっさり挟み撃ち・待ち伏せ・奇襲にあう事例が多発した。すでにこの頃、江戸から官軍優勢の噂が磐城に届いていた事もあり農民が勝ち戦に乗るのも仕方の無い処だったろう。兵力で負けている上に地の利も奪われていた磐城側の負けはすでに、この時に決まっていたのかもしれない。ともあれ純義隊本隊170〜180名程が官軍を探し南へ移動したところ鮫川付近で待ち伏せに会い植田宿へ後退した。鮫川方面への道
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又、同じ頃に八幡山の純義隊半小隊も官軍の攻撃を受け撤退した。純義隊本隊を追ってきた官軍は約500名で磐城側の倍くらいあり持ちこたえられず泉藩のある新田峠へと後退して守りを固めた。この日24日には相馬藩兵二小隊が到着、翌25日には磐城側の兵が新田宿へ集結した。だが同じ25日夕刻には純義隊等が抜けて戦力が落ちていた棚倉城が白河口官軍(土佐の板垣退助の指揮)により陥落の憂き目に会っていた。そして、これを知り勢いに乗った平潟口官軍は磐城戦線に対する速やかなる攻略を決意した。27日官軍軍議の結果、薩摩藩兵・備前藩兵・大村藩(現在の長崎県大村市)兵は海岸道より泉藩を攻略する事。柳河藩兵、佐土原藩兵は本街道より新田坂、湯長谷を攻略する事。柳河藩の半小隊と笠間藩兵(武装が旧式で貧弱な為)は平潟守備に付く事となった。そして28日の明け方、植田に集結した官軍は前進を開始します・・。戦いは泉・新田坂・湯長谷へと続きますが、その話は又という事で(不定期なので今月又は来月中にはアップします)。

話が横に逸れますが鮫川河川敷の公園近くの植田公民館の傍らに「吉田松陰」の碑があります。松蔭が22歳の頃、当時頻発した異国船の無断上陸を憂い手奥州の海防の状況を調べる度に出ました。イギリス捕鯨船が上陸して水戸藩が大騒ぎになった大津浜(大津港)事件を調べるために北茨城にもより野口雨情の祖父達の世代の人達とも交流し雨情の生家で一晩語らったりしています。その後、北上の途中に植田宿にも宿泊しています。脱藩までしての旅でしたがこの時は謹慎ですんでいます。水戸と合せて尊皇攘夷の思想を広めるもとになった人で安政の大獄で斬首されました。。
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ちなみに獄中で書いた「留魂録(りゅうこんろく)」のオリジナルを預かり三宅島に島流しになりながら松蔭の死後17年後に長州人に返した人がいます。詳しい素性は分かりませんが人殺しの罪で入獄し松蔭の牢の牢名主だった元福島藩士「沼崎吉五郎」という人だった様です。吉田松陰の人生の終わりに福島県の人間が関わっていた事に不思議な縁を感じました
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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
スポッツ様、こんばんは。
戊辰戦争というと会津をつい思いがちですが(先日もなぜ開城したかで問題になっていましたが)、スポッツ様が現代の写真付きで解説してくださったようにいわきにも確かに戦いがあったんですよね。平和な鮫川河川敷の様子を見ると何だか不思議な気持ちです。また、いわきの人にも官軍側に味方した人がいたというのは、個人的には少々腹立たしくもなりましたが(そう思うってことは私の中にも愛郷心があるようです)、自分だったらどうしたかなぁって思ったら、官軍の勢いが強いと思ったらやはり怖くで何もできなかったかも…です。兎
本や兎
2008/04/21 22:20
本や兎様、こんばんは。長文お読み下さりありがとうございます。クイズの答えは、それは会津の人も怒るよねと思いました。実際はそれまで賊軍としてしか扱われなかった会津に対して武士としての面目を立てた官軍新司令官「板垣退助」の存在が大きかったようです。いわきでは僅か(幸いにも?)に一ヶ月程の戦いだったため印象が薄いのですが戦いはありました。私も官軍に対しては良い印象がないために、味方をした農民や目明し(いずれ、鹿島街道七本松の戦い編で紹介します)などは裏切り者だと思う感情はあります。唯、支配階級が誰になろうが早く戦いが終われば構わないという考え方や勝ち馬に乗る者・逆らえなかった者、色々あってやっぱりその立場になってみないと分からないですよね。
スポッツ
2008/04/21 22:42

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