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help リーダーに追加 RSS 京都弾丸ツアーF八橋の謎へ迫る・後編+会津藩墓地

<<   作成日時 : 2008/10/12 22:35   >>

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八橋の謎へ迫る後編。最初の方だけ京都から脱線します。
八橋検校死後、廃れてしまったと思われていた八橋流筝曲だったが昭和30年頃信州松代に住む70代の女性が鮮明に記憶している事が分かった。
その人の名は「真田志ん」、真田家分家「真田勘解由家」の末裔でした。
彼女の活躍により長野市の無形文化財として八橋流が復活する事になりました。
何故、信州松代に八橋流が伝わったのか。
真田信就の父は真田信政でした。申し訳ありません
勘解由家の祖は「真田信就」、母は二代目小野のお通の「お伏」、父は真田信之(幸村の兄)の長男「真田信吉」次男で松代藩真田家二代目当主の「真田信政」であるが、「お伏」は側室で生涯、住いを京都に置いた。母の初代「小野のお通」(詳しくは池波正太郎の「真田太平記」と「真田騒動」を参照)同様に文化芸能・礼儀作法に詳しく華やかな京の都を離れて田舎の信州に行く決心がつかなかったのかもしれない。
通説では二代目小野のお通が八橋検校から習ったものが信州に何らかの経路で伝わったとされている。
ちなみに松代真田藩3代目「真田幸道」当時2歳の時に起きた真田家お家騒動では藩祖「真田信之」を信州の獅子と尊敬する風虎の父「内藤忠興」が黒幕の老中「酒井忠清」を恐れずに信之の味方となりました。
忠興の義弟が老中の保科正之(徳川家光の異母弟で会津藩初代藩主)がいたのも大きかった事でしょう。
「真田幸道」が大きくなるまで内藤家は江戸屋敷で預かられる事になりました。

真田家と八橋検校の接点、実はスポッツの住む福島県いわき市常磐地区にありました。
湯本、湯長谷、岩崎、西郷等を領地としていた内藤家分家「湯長谷藩」初代藩主「遠山政亮(忠興の子)」が真田信之の孫娘と結婚していたのである。
画像はいわき市常磐下湯長谷町家中跡25にある湯長谷藩跡地に建つ「岩崎中学校」。
撮影機材ペンタックスistDS2
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(兄)内藤風虎⇔(兄弟)遠山政亮(夫婦)⇔(夫婦)真田のお姫様(従姉弟)⇔(従姉弟)真田信就(親子)⇔(親子)二代目小野のお通「お伏」(弟子)⇔八橋検校(筝の師匠)⇔内藤風虎(パトロン)
という図式で八橋検校からお伏せを通し松代へ伝わったと思われます。

さて舞台は再び金戒光明寺へ。郷土の偉人である検校に花を手向け線香を上げてお墓を離れました。
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検校のお墓のすぐ近くには小城藩鍋島家(佐賀藩支藩)のお墓がありました。聞く所によると春日の局のお墓もあるとかで黒谷の墓地はなかなか興味深い場所です。
だん王さんでの待ち合わせの時間も迫りつつありましたが、ここまで来たら同じ福島県だし、会津に関心の深い山田さんの意向もあり「会津藩墓地」へ向かいました。
文殊の塔へ上る階段から左手へ向かう道が会津藩墓地参道です。

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しばらく進みます。
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会津藩は幕末、京都守護職を務め新鮮組新撰組を配下に置き京都の治安を守り孝明天皇の信頼が厚かった藩です。
現在でさえ福島県から高速バスで10時間近く掛かる距離をはるばる京都までやってきたのか。
きっかけは桜田門外の変で水戸藩と彦根藩の戦争寸前の状態を磐城平藩藩主「安藤信正」と共に治めた事から幕府中枢へと参加する地位に上った事。
これで水戸藩主の子供→一橋家養子→将軍後見職についていた後の「徳川慶喜」に頼りにされてしまった。
攘夷志士のテロが吹き荒れる京都を守護する役職を本来は水戸藩等の親藩が行くのが筋なのに会津藩に白羽の矢が立てられてしまったのだ。
行くのは「火中の栗を拾う」とまで言われ会津藩内では反対の声が多く藩主「松平容保」も悩みに悩んだ。
しかし「徳川慶喜」や「松平春嶽(御三卿田安家の出、会津藩が行かない場合、自分の越前藩に回ってくる可能性があった)」らに会津藩藩祖「保科正之」の家訓の会津藩は他藩がどうであろうと将軍家に尽くせ、二心があってはならぬ・・を盾に押し切られた。

ちなみに春嶽の越前藩(福井県)の藩士「久保村文四郎」は戊辰戦争後の会津藩の管理を任され、戦死者の埋葬禁止、埋葬されたものの墓をあばき元の場所に捨てさせた。会津の恨みは深く、文四郎は任務終了で帰国途中に旧会津藩士達に切り殺された。
命令した長州・薩摩も長く恨まれたが薩摩藩とは西南戦争で恨みを晴らしたのと後に技術者・教育者が会津(斗南藩より後の話)に派遣された事もあり薩摩(熊本)はさほど恨まれていない。
長州(山口)は明治の元老「山形有朋」が徹底して会津をいびり抜いた事もあり、未だに会津には恨まれている。

さて京都に伝手は無い、財政も厳しい(家宝まで売る始末だった)中で文久二年12月に会津藩は上洛して京都守護職として「金戒光明寺」に本陣を構えた。
翌年「松平容保」の実弟(二人とも美濃高須藩から養子に入っている)で桑名藩藩主「松平定敬」も京都所司代」として兄を補佐した。
桑名藩も元はと言えば福島の白河藩の流れを汲み同じ東北弁を使っていたらしくコンビネーションが組み易かったらしい。

会津藩は終始、財政難で藩士達は服は木綿、足袋は汚れが目立たない様に黒足袋、国許では女性の金銀細工の簪禁止(鉄の物のみ可)、連絡用の紙も一番安い物に細かく字を書くことを命じられていた。又、私費でも遊郭は禁止なほど規律は厳格。ストレスで死亡する公用人が出る始末であったという。

会津藩に金があれば新式の銃も揃えられ、鳥羽伏見の戦いではもう少しまともな戦いが出来た事でしょう。
会津藩墓地には禁門の変や鳥羽伏見の戦いで死んだ会津藩藩士の霊が眠っています。
墓地入り口
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お墓(全体の極一部)
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案内の碑
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会津藩の法要は毎年、会津から松平家が訪れ金戒光明寺塔頭「西雲寺」で行われる。
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遠く京都の地で果てた会津の侍に思いを馳せたのも束の間。だん王法林寺での約束の時間もせまり三門へ向かう。
途中、変わった形の墓がある。昭和になって人形師の方が京都の人形繰り(傀儡師)の供養に造った墓らしい。
そういえば、だん王法林寺に祭られている磐城出身の高僧が伝えたとの説もある沖縄のエイサーを広めたのも京都から流れてきたという「京太郎(チョンダラー)」という人形繰りの遊行芸人達だったと言う。
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時間も無いので、携帯電話のGPS機能を使い近くの運転主さんを直接呼び出すシステムで「MKタクシー」の車を呼ぶが・・・山田さんのスケッチブックが見当たらないのでしばらく待っててもらう破目に。でも良い運転手さんで嫌な顔もせず待っていてくれた。
そんな運転手さんに山田さんが「西郷隆盛」に似ているよねと爆弾発言、でも西郷さんが流された奄美諸島出身だったという事実が判明。沖縄縁の「だん王法林寺」に向かうのに同じ琉球弧の島人に送ってもらうとは、これも仏縁かもしれないとスポッツは考えてしまったのでした。
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次回Gは遂にと言うか、やっと今回の旅の最終目的「だん王法林寺」に招き猫を奉納する回ですので宜しくお願いします。

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
。。タッッタッタッタタタタタタタ!( ^^)ノノ
コチラにもお邪魔しています〜。

(・ロ・)ホ('ロ')ホ--ッッ!
新撰組絡みのエピソードが出てくると
知った名前もあり、少しだけど解ります(笑)

池波正太郎って作家さんですよね?
山形?のお話が多い?あれ違ったかな^^;

旅にはアクシデントが付きものといいますが、山田さんのお陰で楽しいひと時(タクシーの中)を過ごせましたね♪

みぃ
2008/10/14 15:32
みぃ様、こちらにもありがとうございます♪
こちら更に書き込みすぎました(笑)。
会津藩と言うと新撰組の雇い主ですのでお読みになった人物もいるかと思います。会津は「斉藤一」が身を埋めた場所でもあります。
池波正太郎は「鬼平犯科帳」や「真田太平記」あたりが有名ですかね。山形は「藤沢周平」さんかな、私もそんなに読んでいる訳ではないので詳しくないのですが。
山田さんの爆弾発言には、え〜と思いましたが意外な事実がわかりお〜っとなりました。旅は予想外の事が起こったり、でも後から振り返ると楽しい思い出になりますよね♪
スポッツ
スポッツ
2008/10/14 18:27
スポッツ様、後編があったのですね。いよいよ次回は招き猫。楽しみです。
あーそれにしても同じ福島でありながら、会津の歴史は磐城とはまた違い、まじめに御上のいうとおりに働いたのにそれはないでしょというような悲しい過去。「戦死者の埋葬禁止、埋葬されたものの墓をあばき元の場所に捨てさせた」これはひどい。永岡慶之助さんが書いた「斗南藩子弟記」という本をむかーし読んだのですが、旧会津藩士が青森に移住するところから不毛な地を切り開いて藩を作る話だったような…うろ覚えで間違っていたらすみません。でも、そのときまで移住や斗南藩のことも知らなかったので、戦いが終わってからも更に別な戦いがあったのだなと知り、更に会津に同情もいたしました。八橋検校さんを横に置いてのコメント申し訳ありません。でも、あまりに悲しい。篤姫もいよいよ…。兎
本や兎
2008/10/14 21:57
本や兎様、後編にもコメント頂きありがとうございます。
会津藩に、これでもかと言うくらい不幸が押し寄せる様には涙が出ます。
斗南藩は会津藩にも場所の選択権があったとはいえ荒れた土地に寒さとで、移住した藩士達の生活は酷く、着物はぼろぼろ食べる物は海草と、最初は同情的だった土地の者にも毛虫扱いされる始末の悲惨さでした。山形有朋は同じ長州の人間からも嫌われるくらい俗物でしたが、この人がとにかく会津人を目の敵にしていびり抜いたのですが、さすがにこの惨状には援助の手を向けたそうです。
斗南藩はその後、解散して会津の人の多くは北海道へ渡り「屯田兵」と呼ばれる開拓者となりました。
私も会津の歴史を知るまでは、何故あんなに長州と仲が悪いのか不思議でしたが今となっては理解できます。長州の人もご先祖様がここまでやったとは知らないでしょうが。
最近聞いた話ですが山口県(長州)出身の歌手さんが全国で酒蔵コンサートをしているのですが会津では、さすがに無理だったという事です。
スポッツ
スポッツ
2008/10/14 22:47
スポッツ様、こんばんは。
あ〜コメント遅くなったら、もう次の記事がアップされてる!すみません、ほんとに遅くなりましたm(_ _)m
さて、八つ橋検校の箏曲が思わぬところに残されていたことには驚きましたが、その伝播の構図をスポッツさんがみごとに説明なさっていることにはもっと驚きました。
また、人々の心にその傷跡を見ることができるということは、藩と藩との争いが原因になっているとはいえ、悲しいことですね。命を奪うほどの争いの結果というものは、そう簡単に消えないということなのでしょう。特に戦争はそうですね。
京都は、どこの地方に何かの遺恨があるとかいうことはないと思いますが、ちょっと前までは、お年寄りが「この間の戦争」と言えば、それは応仁の乱のことを指していました。私も実際に、お年寄りがそんなふうに話をしているのを聞いたことがあります。戦争とは、それほどにも長く人々の記憶に残るものなのでしょう。
しかし、会津藩と金戒光明寺、このような縁(えにし)があったとは…幕末にとんと疎い私は、「時代劇にそういう場面もあったかな」程度なので、いろいろ教えていただけて、本当に楽しいです。
nashitsubo
2008/10/24 00:26
nashitsubo様、こんばんは。
最近は不定期な更新が多く申し訳ありません。
八橋流の原型が信州まで伝わり、そのきっかけが地元の殿様だったのを知った時にはさすがに驚きました。人の縁はどこで繋がるか分からないものです。
戊辰戦争では磐城はあっさり負けたのと来襲したのが薩摩等九州勢だったせいか話題に上る事もありません。浜通り、中通り、会津と言われる程気質が違う地域とは言え同じ福島県の人間が味わった状況には同情せざるを得ません。
やはり大きな戦いの傷は代々語り継がれる事になるのでしょうね。
未だに山口県(長州)と会津の人間が結婚するというと騒ぎになりかねないくらいですし。
地元の歴史を調べていたら江戸時代が案外に面白い時代だと分かりまして少し詳しくなりました。その点、京都は歴史の宝庫なので羨ましい次第です。
くどい文章になりがちで反省しながら書いておりますが楽しんで読んでいただければ嬉しいです。
スポッツ
スポッツ
2008/10/24 00:59
スポッツ様、こんにちは。
内藤風虎⇔八橋検校までのつながり、スゴイです。発見!!ですよね。

義概と側室との間にできた子が、義孝になるのでしょうか?内藤氏はその後磐城から宮崎県延岡に転封となったと本にありました。磐城における内藤氏の時代は100年くらいだったのでしょうか?
みそら
みそら
2008/10/28 16:53
みそら様、こんばんは。
本来は次男(長男は早くに亡くなっていた)が正室の子義英(後の内藤露沾)。継室(後妻)の京都の三条氏との子で年がいってから出来たのが三男の義孝。
義英が家督を継げなかったのは家老の陰謀か単に三男が可愛かったからなのかは分かりません。
余談ですが家老の息子だったとも言われる側室の子、大象もおりましたが20歳くらいで病死しています。
平藩内藤家は政長が藩主となった元和(げんな)8年=1622年から政樹(義英の子)の代だった延享(えんきょう)4年=1747年の125年間平藩を治めました。
スポッツ
スポッツ
2008/10/28 18:34

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