|
八橋の謎へ迫る後編。最初の方だけ京都から脱線します。 八橋検校死後、廃れてしまったと思われていた八橋流筝曲だったが昭和30年頃信州松代に住む70代の女性が鮮明に記憶している事が分かった。 その人の名は「真田志ん」、真田家分家「真田勘解由家」の末裔でした。 彼女の活躍により長野市の無形文化財として八橋流が復活する事になりました。 何故、信州松代に八橋流が伝わったのか。 真田信就の父は真田信政でした。申し訳ありません。 勘解由家の祖は「真田信就」、母は二代目小野のお通の「お伏」、父は真田信之(幸村の兄)の 通説では二代目小野のお通が八橋検校から習ったものが信州に何らかの経路で伝わったとされている。 ちなみに松代真田藩3代目「真田幸道」当時2歳の時に起きた真田家お家騒動では藩祖「真田信之」を信州の獅子と尊敬する風虎の父「内藤忠興」が黒幕の老中「酒井忠清」を恐れずに信之の味方となりました。 忠興の義弟が老中の保科正之(徳川家光の異母弟で会津藩初代藩主)がいたのも大きかった事でしょう。 「真田幸道」が大きくなるまで内藤家は江戸屋敷で預かられる事になりました。 真田家と八橋検校の接点、実はスポッツの住む福島県いわき市常磐地区にありました。 湯本、湯長谷、岩崎、西郷等を領地としていた内藤家分家「湯長谷藩」初代藩主「遠山政亮(忠興の子)」が真田信之の孫娘と結婚していたのである。 画像はいわき市常磐下湯長谷町家中跡25にある湯長谷藩跡地に建つ「岩崎中学校」。 撮影機材ペンタックスistDS2 (兄)内藤風虎⇔(兄弟)遠山政亮(夫婦)⇔(夫婦)真田のお姫様(従姉弟)⇔(従姉弟)真田信就(親子)⇔(親子)二代目小野のお通「お伏」(弟子)⇔八橋検校(筝の師匠)⇔内藤風虎(パトロン) という図式で八橋検校からお伏せを通し松代へ伝わったと思われます。 さて舞台は再び金戒光明寺へ。郷土の偉人である検校に花を手向け線香を上げてお墓を離れました。 検校のお墓のすぐ近くには小城藩鍋島家(佐賀藩支藩)のお墓がありました。聞く所によると春日の局のお墓もあるとかで黒谷の墓地はなかなか興味深い場所です。 だん王さんでの待ち合わせの時間も迫りつつありましたが、ここまで来たら同じ福島県だし、会津に関心の深い山田さんの意向もあり「会津藩墓地」へ向かいました。 文殊の塔へ上る階段から左手へ向かう道が会津藩墓地参道です。 しばらく進みます。 会津藩は幕末、京都守護職を務め 現在でさえ福島県から高速バスで10時間近く掛かる距離をはるばる京都までやってきたのか。 きっかけは桜田門外の変で水戸藩と彦根藩の戦争寸前の状態を磐城平藩藩主「安藤信正」と共に治めた事から幕府中枢へと参加する地位に上った事。 これで水戸藩主の子供→一橋家養子→将軍後見職についていた後の「徳川慶喜」に頼りにされてしまった。 攘夷志士のテロが吹き荒れる京都を守護する役職を本来は水戸藩等の親藩が行くのが筋なのに会津藩に白羽の矢が立てられてしまったのだ。 行くのは「火中の栗を拾う」とまで言われ会津藩内では反対の声が多く藩主「松平容保」も悩みに悩んだ。 しかし「徳川慶喜」や「松平春嶽(御三卿田安家の出、会津藩が行かない場合、自分の越前藩に回ってくる可能性があった)」らに会津藩藩祖「保科正之」の家訓の会津藩は他藩がどうであろうと将軍家に尽くせ、二心があってはならぬ・・を盾に押し切られた。 ちなみに春嶽の越前藩(福井県)の藩士「久保村文四郎」は戊辰戦争後の会津藩の管理を任され、戦死者の埋葬禁止、埋葬されたものの墓をあばき元の場所に捨てさせた。会津の恨みは深く、文四郎は任務終了で帰国途中に旧会津藩士達に切り殺された。 命令した長州・薩摩も長く恨まれたが薩摩藩とは西南戦争で恨みを晴らしたのと後に技術者・教育者が会津(斗南藩より後の話)に派遣された事もあり薩摩(熊本)はさほど恨まれていない。 長州(山口)は明治の元老「山形有朋」が徹底して会津をいびり抜いた事もあり、未だに会津には恨まれている。 さて京都に伝手は無い、財政も厳しい(家宝まで売る始末だった)中で文久二年12月に会津藩は上洛して京都守護職として「金戒光明寺」に本陣を構えた。 翌年「松平容保」の実弟(二人とも美濃高須藩から養子に入っている)で桑名藩藩主「松平定敬」も京都所司代」として兄を補佐した。 桑名藩も元はと言えば福島の白河藩の流れを汲み同じ東北弁を使っていたらしくコンビネーションが組み易かったらしい。 会津藩は終始、財政難で藩士達は服は木綿、足袋は汚れが目立たない様に黒足袋、国許では女性の金銀細工の簪禁止(鉄の物のみ可)、連絡用の紙も一番安い物に細かく字を書くことを命じられていた。又、私費でも遊郭は禁止なほど規律は厳格。ストレスで死亡する公用人が出る始末であったという。 会津藩に金があれば新式の銃も揃えられ、鳥羽伏見の戦いではもう少しまともな戦いが出来た事でしょう。 会津藩墓地には禁門の変や鳥羽伏見の戦いで死んだ会津藩藩士の霊が眠っています。 墓地入り口 お墓(全体の極一部) 案内の碑 会津藩の法要は毎年、会津から松平家が訪れ金戒光明寺塔頭「西雲寺」で行われる。 遠く京都の地で果てた会津の侍に思いを馳せたのも束の間。だん王法林寺での約束の時間もせまり三門へ向かう。 途中、変わった形の墓がある。昭和になって人形師の方が京都の人形繰り(傀儡師)の供養に造った墓らしい。 そういえば、だん王法林寺に祭られている磐城出身の高僧が伝えたとの説もある沖縄のエイサーを広めたのも京都から流れてきたという「京太郎(チョンダラー)」という人形繰りの遊行芸人達だったと言う。 時間も無いので、携帯電話のGPS機能を使い近くの運転主さんを直接呼び出すシステムで「MKタクシー」の車を呼ぶが・・・山田さんのスケッチブックが見当たらないのでしばらく待っててもらう破目に。でも良い運転手さんで嫌な顔もせず待っていてくれた。 そんな運転手さんに山田さんが「西郷隆盛」に似ているよねと爆弾発言、でも西郷さんが流された奄美諸島出身だったという事実が判明。沖縄縁の「だん王法林寺」に向かうのに同じ琉球弧の島人に送ってもらうとは、これも仏縁かもしれないとスポッツは考えてしまったのでした。 次回Gは遂にと言うか、やっと今回の旅の最終目的「だん王法林寺」に招き猫を奉納する回ですので宜しくお願いします。 |
| << 前記事(2008/10/12) | トップへ | 後記事(2008/10/23)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
。。タッッタッタッタタタタタタタ!( ^^)ノノ |
みぃ 2008/10/14 15:32 |
みぃ様、こちらにもありがとうございます♪ |
スポッツ 2008/10/14 18:27 |
スポッツ様、後編があったのですね。いよいよ次回は招き猫。楽しみです。 |
本や兎 2008/10/14 21:57 |
本や兎様、後編にもコメント頂きありがとうございます。 |
スポッツ 2008/10/14 22:47 |
スポッツ様、こんばんは。 |
nashitsubo 2008/10/24 00:26 |
nashitsubo様、こんばんは。 |
スポッツ 2008/10/24 00:59 |
スポッツ様、こんにちは。 |
みそら 2008/10/28 16:53 |
みそら様、こんばんは。 |
スポッツ 2008/10/28 18:34 |
| << 前記事(2008/10/12) | トップへ | 後記事(2008/10/23)>> |