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zoom RSS 家光が訪れた延岡藩内藤家上屋敷・・霞ヶ関コモンゲート

<<   作成日時 : 2010/06/27 21:06   >>

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地下鉄銀座線虎ノ門駅5から地上に出ると、そこは文部科学省のすぐ脇だ。
撮影機材はキャノンEOS KissX3+タムロンAF18-270mm (Model B003)
画像をクリックすると大きめに見れます。
人名・建物名等、文字の色違い部分は、ウィキ等とリンクしています。


左手霞ヶ関ビル、真ん中・金融庁、右手が文部科学省
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霞ヶ関ビル
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旧・庁舎
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この霞ヶ関ビル・金融庁・文部科学省・文化庁のあるブロック(霞ヶ関コモンゲート)はかっての延岡藩内藤家の上屋敷があった所である。
延岡藩(宮崎県延岡市)内藤家は、江戸時代中期に、磐城平藩から転封になり、以後幕末まで延岡を治めた。
延岡藩牧野家が笠間藩に、笠間藩井上家が磐城平藩に、そして磐城平藩内藤家が延岡藩に移封された。
その縁もあり、現在もいわき市と延岡市は交流を続けている
又、いわき市と延岡市の名産品は偶然にも同じ魚・メヒカリである。

この磐城から延岡の配置換えは、いわゆる三方領地替えであるが、実は江戸時代で、もっとも遠くに飛ばされた記録でもある。

佐貫藩→磐城平藩→延岡藩と移封した内藤家は、関ヶ原の前哨戦、伏見城の戦いで大将・鳥居元忠と共に討ち死(京都の血天井)にした副将・内藤家長の子、内藤政長によって興された家である。

屋敷のあった虎ノ門と言う地名の謂れには諸説ありますが、内藤家屋敷内に咲いていた「虎の尾」という大きな桜の木から来たと言う説もあります。

屋敷跡にある、文部科学省は、最近は、小惑星探査機「はやぶさ」や角界を巡る話題でも出て来ますが、内藤家や敷地跡と結びつけると縁があるのかなと思います。

なぜなら延岡藩内藤家領地内の高千穂は天孫降臨の地(高千穂峡のある方がそうで、天逆鉾のあるのは霧島連峰)として知られており、天から舞い降りた、はやぶさの話題に通じる物があるのではないかと思う。

なにより、この敷地内には明治期から関東大震災で倒壊するまで工部大学(糸川英夫の出身校・東京大学工学部の前身)の建物があったのである。
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又、内藤家の墓所は、磐城平藩時代に、江戸霊厳寺から鎌倉光明寺に移されているが、その原因は勧進相撲が寺で行われたさい、内藤家墓石に板を掛け観覧席にしてしまった事と言われている。

墓参に来ていた、二代目・内藤忠興の側室・香具姫(天光院)がそれを目撃。激昂して墓の移転を申し出たが、住職が渋ったため、石屋太右衛門に頼み墓から棺を引き抜き移転したと言う。
相撲界にトラブルが多いのは彼女の祟りかも知れない。


さて、内藤家屋敷には、三代将軍・家光が三回程訪れている。経緯は良く分からないが、初代政長の伯父内藤信成は家光が崇拝する家康の異母弟と言われているし、政長自身が家康の隠し子と考える研究家もいる。
そして家光の従兄弟・蒲生忠知の室は政長の娘でもある。その娘の墓も内藤家墓所と同じ鎌倉にある(薬王寺)。

政長が家光に茶を点てた際に使われたと言われる茶入れ「鍋屋肩衝」は蒲生家から伝わったと言う。鍋屋肩衝は、内藤家屋敷からすぐの松代藩真田家(現在の日本郵政付近)と縁組が行われた関係もあり、一時真田藩に渡り、その後各所を転々としている。


家光が内藤家を訪れたのは、いずれも近くにあった赤坂溜池に寄った際の出来事であった。

現在、文部科学省敷地内に江戸城外堀石垣跡が残っているが、これが溜池に通じていた。というか溜池は外堀の一部としても機能しており、玉川上水が出来るまでは、江戸の飲料水となっていた。
敷地内の外堀石垣跡。
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実は文部科学省と旧庁舎の間のこの部分地下鉄出入り口に石垣の詳しい説明があったらしいのだが、気が付かなかった。
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霞ヶ関ビルとなりの特許庁の部分に堰があり、首相公邸(内藤信成系の村上藩内藤家屋敷跡)の南が溜池中心部であった。
ここは飲料水の供給ばかりでなく当時の景勝地としても有名だった。
特許庁
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この右手のビルも含め道路全体が溜池になっていた。
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赤坂111ビル前の交差点内にある溜池発祥の碑。かって司馬遼太郎もここを中心に赤坂を散策したと言う。
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徳川家光は、溜池において水練を行っていたらしい。溜池の碑には子供時代から泳いでいたと記されている。

家光が内藤家を訪れた時期は、
寛永三年(1626年)5月 溜池上覧、内藤家屋敷で明の文人「陳元贇」との謁見及び彼に詩を作らせる。
寛永七年(1630年)夏、溜池御遊覧、内藤家屋敷へ
寛永八年(1631年)夏、溜池御遊覧、内藤家屋敷へ

これに対し、家光の縁者と内藤家の姫との縁組の時期が
政長の7女・称比姫と家光の従兄弟・蒲生忠知との縁組が寛永四年(1627年)。
政長の8女・菊姫と家光の異母弟・保科正之との縁組が寛永十年(1633年)。

家光が最初に内藤家を訪れた際に少なくとも、蒲生家との縁組に対しての話があったと考える方が自然ではないだろうか。
保科正之との縁組に対しては、家光が正之の存在を知ったのは寛永八年の12月付近と推測されるらしいので、直接の話は無かったにしても菊姫の存在が記憶には残っていたと思われる。

そして、もうひとつ、政長の娘で会津の殿様に嫁いだ姫には家光の隠し子説があるらしい。
会津に関連する姫はは3人。

三春城主・蒲生喜左衛門郷喜(蒲生忠知の家臣)に嫁いだ長女。しかし郷喜には、真田幸村(信繁)の娘・あぐり姫も嫁いでいる筈なのだが、どちらが正室なのか?いずれにしても年齢・身分共に長女は隠し子説の対象とはならないと思う。

そして、蒲生郷喜の主君・蒲生忠知に嫁いだのが7女の称比姫。忠知は会津藩から伊予松山藩へ国替えになっているので会津の殿様と言えるかはは微妙。それにしても妹が自分の旦那の上司と縁組した長女の気持ちは複雑だったではなかろうか。

そうすると8女の菊姫が妥当か、叔父さんと姪の結婚になると思うのだけれど、異母弟だし、ありかも知れ無い。
いずれにせよ真相は分からないが、そうだと考えると、内藤家屋敷に三度訪れた意味も変わってくるかもしれない。



さて、延岡藩内藤家屋敷や溜池跡を見た後はせっかくなので近くの首相官邸を見学。公邸は壁に覆われて確認出来ない(グーグルアースなら可能)。さすがに警備の警官の方は多かったです。ちなみに写真を撮った位置(自分が立っていた場所)も村上藩内藤家の敷地だったらしい。
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そして国会議事堂を横(南門)から見学、あまり時間も無いので財務省(宮津藩本庄家屋敷跡)の前から地下鉄におり日比谷線にて六本木へ向かう。
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財務省の宮津藩本庄家で調べたら、宮津藩と言う所は、今回の史跡巡りでも取り上げる予定の内藤忠勝(浅野匠守の叔父)乱心事件の被害者・永井尚長が治めていた藩でもあった。
忠勝に刺し殺された尚長は、忠勝の甥・浅野匠守に斬られ、大石内蔵助達に殺された吉良上野介と同じお寺に葬られているそうだ。
左・財務省、右内閣法制局図書館。間から見えるのが金融庁と霞ヶ関ビル。
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写真は財務省側から見た日本郵政(後ろの方が松代藩真田家上屋敷)
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次回は総司忌と湯長谷藩(いわき市常磐地区や周辺部を治めた藩、今風に言えば、フラガールの町のお殿様か)。



参考資料 江戸時代の大名「日向延岡藩内藤家文書の世界」、内藤候平藩史料、中村彰彦「保科正之」他。
沖縄チャンプルー博覧会
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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
スポッツ様、こんにちは。
長年東京におりましたが、視点が違うと見えるものも違うものですね。霞ヶ関などはただのビル街としか思えなかったし、そんな歴史が埋もれているなんて考えもしませんでした。ただただ、歴史のお勉強が得意ではなかったせいかもしれませんけど・・・。いわきに暮らしてはじめて持てる視点というのもあるでしょうね。文献を読むだけでなく、実際に訪ねてしまうスポッツ様とお仲間の熱意がすごいです。兎
本や兎
2010/06/28 11:26
本や兎様、こんばんは。御返事が送れてすみませんでした。
私も昔は地元の歴史にはあまり興味の無かった方です。しかし、調べてみると今まで知っていた、あの場所が!あの人物が!いわきと関係があったとか新しい発見が出来て面白いです。

本や史料を読んで色々知った後で、その地に立つと、何だか、その時代の風景が浮かんでくるような気がします。
スポッツ
スポッツ
2010/06/28 21:15

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