磐城の戊辰戦争②幕末遊撃隊、磐城へ。

伊庭八郎データ追加1月30日平城登城の部分修正官軍の平潟港上陸に遡る事、5月15日に幕府残存勢力の彰義隊と官軍による「上野戦争」が勃発したが、官軍の「大村益次郎」の巧みな作戦により、たった1日で終了。(これが、箱根で戦っていた遊撃隊にも大きな影響を与えている)御旗に祭り上げられていた「輪王寺の宮」後の北白川宮(孝明天皇の兄弟で僧籍に入っていた。明治天皇の叔父)は上野を脱出して品川沖より榎本艦隊の艦船「長鯨丸」にて5月25日出発、28日平潟港へ上陸。平潟港の役人「鈴木主水」(すずきもんど)屋敷にて休息した後、湯本温泉、磐城平城を経て会津、米沢を通り仙台へ落ち延びていった。
鈴木主土屋敷
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北白川宮の碑
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同じ頃、箱根の戦いで敗退した「遊撃隊」の人見勝太郎、林忠嵩(又は昌之助)ら残存勢力から編成しなおした100名は密命を帯びた榎本艦隊軍艦「長崎丸」に同乗して会津入りを目指し平潟港へ向かった。しかし、先を急ぐ艦長判断により燃料の石炭補給を兼ねて6月3日に「小名浜港」へ入港した。船は常磐炭鉱より積み出されていた石炭を搬入後、遊撃隊を降ろし仙台に向かっていきました。その後、長崎丸は仙台兵を搭載して再び小名浜へ来る事になります。
当時の磐城の藩の配置や地形図。(勿来の関の案内板)
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当時、遊撃隊と名のつく隊は官軍・幕府軍を問わず存在しましたが、この話に出てくるのは幕府遊撃隊の事を指します。幕府遊撃隊は直参旗本らで編成された将軍直属の護衛隊とも呼べる組織で、将軍「徳川家茂」の京都上洛の際の身辺警護に当ったりしています。遊撃隊で有名なのは、伊庭八郎・人見勝太郎・林忠嵩の3名です。幕府遊撃隊は江戸無血開城の後将軍「徳川慶喜」に付き添い慶喜の実家の水戸藩に向かう途中で分裂。慶喜に付き添うもの。彰義隊に加わった者。そして中千住大橋で別れた人見勝太郎・伊庭八郎ら36名の初期メンバーによる新遊撃隊(もっとも、この名は一時・新撰組が使用していたので紛らわしいため小説で使われている遊撃隊とします。)こと幕末遊撃隊が誕生。

人見勝太郎とは・・天保14年(1844年)京都二条千本の十軒屋敷にて京都文武館の文学教授の幕臣人見勝之丞と母仙のもとに生まれる。剣術・西洋砲術にも精通かつ学問にも長けた人で、二条城滞在の将軍徳川家茂に孟子を講義、又上覧試合を行い優勝しました。幕府遊撃隊の頃は鳥羽伏見の戦いでも活躍。林忠嵩らを加えた新しい遊撃隊を結成後、神奈川県小田原周辺にいたが、彰義隊の蜂起を聞き箱根を占拠、官軍や幕府残党の動きを見ながら日和っていた小田原藩と遂に戦闘(箱根戦争)、官軍も後ろについた(というか見張られていた)数ではるかに勝る小田原藩に敗北、片腕を無くした伊庭八郎を江戸に残し、東北各地で転戦・林隊が抜けた後、仙台から蝦夷共和国所属とし遊撃隊と函館戦争に参加。そこで、伊庭八郎と再び合流。函館戦争中、大砲の至近弾を受けて重傷を負うが助かり、戦後、勝海舟に紹介状を書いてもらい西郷隆盛に面会(海舟も先刻承知で・たぶんあなたを切るつもりだろうけど、会ってくれと書いたらしい)切るつもりで薩摩へわたるも西郷の人物の大きさにうたれ薩摩留学。後、静岡で茶畑栽培、学校教師を経て大久保利通の信頼を得たりして茨城県令を勤めた後、利根川に運河を作る事業を行なうなど活躍。大正11年に80歳で亡くなりました。

さて今回、磐城にこれなかった伊庭八郎ですが実は遊撃隊ファンの中では1番人気の人です。江戸の三大道場(斉藤・桃井・千葉)につぐ大道場の伊庭道場の跡継ぎ候補であった彼は、若い頃は道場破り対策の助っ人としてか、沖田と同年輩だった八郎が土方あたりと気があったのか試衛館にちょくちょく顔を出していました。遊撃隊に入ってからは将軍、徳川家茂に付き従い京へ出てグルメと観光の旅を楽しんでいた時期もありました。、箱根の戦いで友軍と間違い敵10人程と戦闘、左手首を後に切断する深手を負うも、3人を瞬く間に倒し、その気迫に敵兵は逃走しました。江戸では伊庭の子天狗が100人を切ったと誇大に伝わり一躍有名人になりました。片腕となった後、江戸を脱出して遊撃隊に復帰。木古内で重傷を負い函館陥落前日に榎本武揚におくられたモルヒネを飲み自害しました。土方歳三が落命した翌日の事でした。その時に隣で同じく安楽死させられた幕府残党軍の春日太夫左衛門を看取り、結果伊庭八郎の最後を見届けていたのが新撰組最年少の隊士で15歳の磐城平藩出身の田村銀之助でした。彼は戦闘兵ではなく土方の小姓、榎本の小姓、そして春日太夫の養子と函館戦争の伊達男と言われた人物達に縁のある人でした。(その後、西南戦争にも参加しています)

さて新しい遊撃隊は榎本艦隊の小型船で、将軍のお膝元で佐幕派の大名の多い房総(千葉県)へ向かい、そこで請西藩一万石(千葉県木更津市)の二十歳の若殿様、林忠嵩と出会います。小藩とはいえ、かって徳川家の先祖の松平家が落ち延びた際に兎の吸い物をご馳走し、その後松平家が持ち返したことから正月には将軍に兎の吸い物を献上し、諸侯の中で真っ先に杯を賜る名誉を得ていた林家の当主忠嵩には徳川家復興の願いが強くありました。当時別の幕府残党「撒兵隊」が藩領内にいましたが行状が悪く、統制の行き届いた遊撃隊と同盟を組む事になりました。林忠嵩は、藩に迷惑が掛かるのを心配して脱藩して参加。幕末広しといえども殿様が脱藩して最前線で戦うというのは前代未聞の事で後にも先にも彼しかいませんでした。。その後、房総諸藩の兵を加え300名程になった遊撃隊は、箱根戦争に敗れた後、隊を100名程に絞込み長崎丸で6月2日小名浜へやって来ました。小名浜代官所で休息していた遊撃隊の所に仙台藩の使いが接触、磐城平藩への援軍要請の話を聞きました。その夜は小名浜の宿屋に逗留。翌日3日、小名浜、三崎、剣崎の防衛状況を視察した後出発。大原街道を通り湯本を経て磐城平城へ登城。藩主の代理(養子で藩主の信勇は、美濃の飛び地で病気療養中で官軍側についていた、実子の先代藩主はその前に就任後、半年で死亡している)で先々代の当主、元老中の「安藤対馬守信正」公と仙台藩南方総督「古田山三郎」らの要請を受け磐城の地にて戦う事となった。
そして温泉での湯治を薦められ湯本温泉の「新滝旅館」(古滝屋の隣にあったが今はない)に逗留。今までの戦いの傷や疲れを癒した。元々、戦国時代の武将が湯治に来る程傷を治すに適した温泉でもあったので6月15日までの12日間、湯本に滞在する事となった。
新滝旅館跡
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安藤信正・・老中職について間もない、万延元年(1860年)3月3日に桜田門外の変で亡くなった「井伊直弼」の後を継ぎ、反直弼派だった下総関宿藩の久世広周と共に幕政を担った。又、井伊直弼の彦根藩と暗殺に携わった水戸藩との戦争にも為りかねない自体を防ぐため病死として押し通すなどして治めた。(会津藩松平容保公の仲裁もあった)公武合体を推進、幕府財政の建て直しに務めるなどし、又、外交面での働きは目覚しく、各国大使館員に信頼されていたヒュースケン暗殺事件の解決、アメリカ・イギリスと領有で揉めていた小笠原諸島の日本帰属を確定、対馬を不法占拠しようとしたロシア戦艦をイギリスの手を借り追い払うなどした(又、これらの脅威に対抗するためアメリカに軍艦を発注するも納入は政界追放後で、しかも信正自身に思わぬ形で帰ってきた。)又、アメリカ駐日総領事タウゼント・ハリスとの関係も良好で彼の離任時には、「あなたの功に値するどんな宝物もなく贈れるのは、この富士山くらいです」といった意味の言葉を送ったらしい。しかし、1862年1月15日に再び水戸藩士達による襲撃事件の「坂下門外の変」が起こり、素足で門内に逃げた事や籠の中にいた時に刺された背中の傷の件等の表向きの理由、本音は井伊直弼の流れを断ち切りたかった島津久光らにより老中を罷免された。実際、襲撃を予測して凄腕の剣士達を護衛につけて襲撃者を全員返り討ちにしたり、怪我を負いながらすぐさま冷静に報告、怪我の身ながら公務に勤めるなど剛胆な所のある人でした。安藤信正像(いわき市松ヶ丘公園)
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参考資料「遊撃隊始末」中村彰彦著他

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この記事へのコメント

本や兎
2008年01月29日 14:46
スポッツ様、こんにちは。鈴木主土屋敷、私もなんだろう?と思って行ってみました。近寄ってよいのかどうか躊躇しました。普通のお宅なのかと・・。もう何年も前のことですが。私のよくないところはなんだろう?で終わってしまうところです。兎
スポッツ
2008年01月29日 16:42
本や兎様、こんにちは!鈴木主土家は代々、浦役人を務めてきた家系だそうですが、主土邸は今では個人の所有物で、補修・保存をしたくても行政では関われないそうで朽ち果てるばかりになっています。私も存在を知ってから何回も行こうと思っていたのですが今回、地元の人に聞いて近くに行けると聞き、やっと撮影した次第です。自分も迷いに迷ってから行動するタイプなので、そんなに変わりないですよ。(;^_^ A フキフキ
スポッツ
ピナ男
2010年12月18日 20:00
スポッツさま
お陰様でたいへん勉強になります。
いわきの戊辰戦争に興味があり
あちこち市内を出かけております。
いわき市民なのに知らないこと多いですね。
これからも楽しみにしております。
スポッツ
2010年12月18日 22:54
ピナ男様、こんばんは。
読みづらく細部の詰めが甘い文章でございますがお読み下さりありがとうございます。

いわき市は戊辰戦争もですが、歴史関係において興味深い話がまだまだ埋もれています。
歴史は専門家だけのものでは無く、一般人の視点から話を拾い出し観光にも繋げられれば良いなと思っています。

いわきの歴史はたいした事が無いと誤解される事もありますが、そんな事はありません。
微力ですが、市民の方が歴史に興味を持って頂ける事を願って頑張ります。
どうもありがとうございます。
スポッツ

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