「井伊直弼」亡き後のリリーフ・平藩藩主「安藤信正」・・・・・いわき市平 龍ヶ城美術館

8月13日(水)、「良善寺」と「安藤家墓所」写真追加。
龍ヶ城美術館は閉鎖されたようです。なにか進展がありましたらブログ内にて報告いたします。現在、NHKで放映中の大河ドラマ「篤姫」は、女性に人気があり視聴率がけっこう高いようです。将軍家茂役の松田翔太も自分の青春時代の憧れ松田優作を思い出してジーン...(≧ω≦。)、

ドラマでは、安政7年=万延元年(1860年)の3月3日ひな祭りの日の事件「桜田門外の変」を迎えました。物語の冒頭、井伊直弼から「公武合体」の策を聞いていたのが磐城平藩藩主で老中職もつとめた「安藤信正」(配役・白井 晃)です。
7月13日の放送では、信正とタッグを組んだ千葉の関宿藩主「久世大和守広周」(志賀 廣太郎)が登場しました。久世家は老中職を何度も務めた名門。先祖の久世広之は「樅の木は残った」の伊達家御家騒動の後始末をした事でも有名です。

井伊直弼が殺される元になった「安政の大獄」のそもそもの発端ともいえるのが朝廷から水戸藩(一橋慶喜の実家)に勅書が下された事です。井伊直弼の朝廷を無視して結んだ日米修好通商条約が異人嫌いの孝明天皇を怒らせたのが原因ともいえます。異人を討てという勅書を水戸藩が受け取るのを幕府が、はいそうですかと言うはずも無く、直弼の命を受けた磐城平藩藩主「安藤信正」は死装束で度々水戸藩に赴き勅書を取り上げてしまいます。この件で直弼に気に入られ万延元年1月15日に老中に昇格します。(ちなみに2年後の文久2年の1月15日に「坂下門外の変」で水戸の浪士に襲われてます。)
以降、信正も直弼同様に水戸藩につけ狙われる事になります。安藤と常磐沖のアンコウを掛け安公を切れなどと言われる程憎まれました。井伊直弼が万延元年(1860)、3月3日ひな祭りの日に水戸の浪士に殺される「桜田門外の変」が起こります。ちなみに常磐炭鉱いわき側の祖「片寄平蔵」が攘夷派の侍に殺されたのも同じ年の8月3日でした。

井伊直弼暗殺の後、水戸藩と彦根藩との戦争(赤穂浪士の仇討の大規模な奴)を防ぐため、世間には知れ渡っているにもかかわらず公式には直弼は療養中という事にして処理しました。同じく、戦争回避のため会津の「松平容保」公も仲裁に動き、その後幕政の中心に近づきますが二人とも8年後に賊軍として扱われるとは予想だにしていなかったでしょう。ちなみに水戸藩の「徳川斉昭」も急死しますが、彦根藩の刺客に暗殺されたとの説もあります。なにしろ彦根藩の怒りは凄まじく、「桜田門外の変」での直弼警護の者達は駕籠かきにいたるまで無傷の者は切腹・打ち首、大怪我をしていたものでさえ重い処罰が下された。水戸の天狗党の処刑の時も彦根藩が担当。最後の将軍で水戸藩出の徳川慶喜が指揮を執った鳥羽伏見の戦いでは幕府を裏切るまでの行動も取っていた。「徳川斉昭」が死んでいなかったら戦争も有り得たのかもしれませんし、回りまわって彦根藩キャラクター「ひこにゃん」も存在しなかったかもしれません(笑)*ちなみに「ひこにゃん」は井伊家菩提寺「豪徳寺」の有名な招き猫伝説にちなんでます。

そもそも、朝廷が異人嫌いになったのは水戸斉昭が公家と縁戚関係にあることから、攘夷思想を天皇に吹き込んだ事にあります。1853年のペリー来航以前に各地であいついだ異国船襲来。鎖国中とはいえ出島を通して世界情勢、特にアヘン戦争の結末などはかなり正確に幕府やその周辺に届いておりました。
強力な異国の戦力に対して、幕府の様に外交を交わしつつ国力増強を図るか、薩摩・長州のように強行姿勢のあげく軍事衝突するか(孝明天皇の意向があったとはいえ)は、正確な国力の差が分からない時点では正しい判断が出来なかったでしょう。後に薩摩藩や長州藩の取った態度を見れば幕府の取った態度も間違いではありませんでした(主観です)。
安藤信正公
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さて話しは本題に戻ります。安藤信正公が最後の城主(戊辰戦争時、養子の信勇は信州にいた)となった平城跡地にある「龍ヶ城美術館」の話しです。かっての関が原の戦いで中立の立場をとった、いわきの領主「岩城貞隆」は秋田へ飛ばされ、替わって関が原前哨戦で石田三成ら20倍の軍勢を相手に戦い討ち死にした伏見城大将「鳥居元忠」の息子「鳥居忠政」が磐城へ着任。磐城平藩が誕生。まだ、豊臣家は残り、仙台伊達藩や相馬藩がどう動くか分からない時期の事。水戸より北へは、堅固な城が無いために徳川家から技術者と金銭の援助を受け約12年かけ城と城下町を整備。城の建築には盲人すら駆り出されたといいます。その城も仮想敵だった仙台藩や相馬藩に守られるという戊辰戦争の皮肉な状況の中、焼け落ちました。戊辰戦争後は損壊した櫓は取り壊され、門は売られたり下げ渡されたりで無くなりました。
安藤家墓所のある「良善寺」の門は平城にあった物、門には戊辰戦争の弾の跡が残る。
「良善寺」地図と門の写真

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安藤信正公は明治四(1871)年、廃藩置県の行われた年に亡くなった。晩年の信正公は人との接触も避け、口を開く事も殆ど無かったと言う。享年53歳。
「良善寺」の中にある安藤家の墓所
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そして「あやめ堀」と呼ばれた外堀?は常磐線開通のために埋め立てられ、今は僅かに石垣の一部と掘の跡「丹後沢」が残るのみです。
写真はいわき駅(旧平駅)から見えるお城の櫓のあった位置。
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「あやめ堀」という堀は現在のいわき駅(旧平駅・・私の様な古い人間はどうしても平駅と言ってしまいますが)敷地がすっぽり入る位置に、外堀(水路?)は駅前大通りの現在の「ラトブ」の後ろ付近を通り、常陽銀行やヤマニ書房の前の道路を通りT1ビル(ワシントンホテル)付近から平読書クラブの前を通り又城跡の方へ繋がっていました。
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ラトブといえば、中に「大平楼」というお店がありますが、ここでは安藤家御用達の「献上粕てい羅」が販売されています。現在は茶道・香道(アリオスでの能楽の際、香での清めもなさっています)の家元をなさっている安藤家がお使いされている品ですが、安藤家4代目(美濃藩初代)の信友公が八代将軍吉宗に献上したのが由来です。日本でも先駆けてカステラを作らせた御先祖様とカステラで外国公使を接待した信正公、外国の文化との交渉の上手さはこんな所から来ているのかも。
大平楼の「献上粕てい羅」、平城絵図や安藤家のカステラ由来の説明分も入ってお徳です(プレーン¥900)
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さて、龍ヶ城美術館へ至る道は狭く、車で行くのは難しいです。よっていわき駅周辺の駐車場へ車を入れ橋上駅通路から駅裏側へ抜け住宅街の中を通り抜けて行くのが一番無難な方法だと思われます。
ラトブとペディストリアンデッキでつながっている、いわき駅
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旧駅ビル「ヤンヤン」も今は更地と化してしまった。
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在りし日のヤンヤン
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駅の通路を抜けると銅像の近くに出ますが、その逆にある坂を登り住宅地へと進みます。
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この辺の住所は「平・旧城跡」
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先に進むと、数少ないお城の痕跡である石垣があります。
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さらに住宅地の中をくねくね進むと、美術館近くに空き地がありますが、ここが駅ホーム付近から見えた場所でう。この場所は平城の三重櫓のあった所です。平城の再建話は何度か出てはつぶれるの繰り返しで、いまもって空き地のままです。旧藩主だった安藤家より猪狩さんという方が譲り受け、平城を再建しようと頑張りましたが、その方も夫婦共々亡くってしまいました。その為、この場所もどこかに売られてしまうという話しが出ていた様ですが詳しい事は分かりません。
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さて本題の龍ヶ城美術館です。値段はリーズナブルです。
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一階は平城には関係ない美術品等が展示されているようです。ので今回は2階の写真のみです。階段踊り場には、なにやら捕り物用の武器らしきものが置かれています。
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展示室に入ると天守閣を備えた立派なお城の模型が・・しかし、これは平城ではなく何故か大阪城でした。(; ´∀`a)
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本当の平城の図面はこちらです。立体模型はかって作られた事がありましたが壊れてしまい今はありません。城の再建以前にビジュアルで市民に訴える模型は重要だと思います。畳一畳程の大きさで構いませんので高専で作成されたらしいCGから作っていただきラトブに飾っていただけないものでしょうか。できれば、伊達藩の殿様が関心したという夕陽に浮かぶジオラマだと、なお結構です。街づくりの団体のメンバーから少しづつ寄付を頂いただけで可能なプランだと思いますが、いかがなものでしょうか?それと福島県殿様サミットとかで知名度アップはどうでしょう(松平容保、松平定信、安藤信正他で)
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拡大しないと分かりづらいかも知れませんが、地図下側の石垣下の弧を描いた大きい堀があやめ堀と呼ばれ、現在の平駅構内のあたり。外堀に囲まれた出島のような部分がラトブ付近です。
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そして展示室中央には、戊辰戦争時敵だった毛利家(長州)の所有だった鞍があります。勿来の関の美術館の方が毛利家との縁があったため譲り受けたものが最終的にここに展示されたようです。
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鎧も平の殿様に混ざって毛利家のものがあるみたいです。でも家紋が逆さのような?長州への嫌がらせか(笑)。
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明治時代に平のあった劇場で演じられた出し物の広告用の絵らしい。
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わかりづらいが、戊辰戦争後の風景画の平の街部分を撮影。
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平城城下に架かる長橋(現尼子橋のあたり、現在の3倍ほどの長さだったらしい。赤い橋が現在の尼子橋。
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いわきの戊辰戦争で終盤部分、長橋の激戦の図。柳河藩が描いたもので柳川市(北原白秋で有名)の神社に奉納されているものコピーらしい。いわきの戊辰戦争は新暦だと今頃(8月)、ドンパチやっていた訳です。応援に来ていた主力である仙台伊達藩には言うのは心苦しいのですが、仙台藩兵が逃げ回っていたせいもあり、負けっぱなしでした。「林忠嵩」や「人見勝太郎」の「遊撃隊」や他の援軍「純義隊」、相馬藩、米沢藩も頑張ってはくれたのですが、装備、兵力、農民達の道案内による挟撃などで良い所があまり無く終わりました。
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さて、安藤信正は公武合体(婚約者のいた天皇の妹「和宮」を家茂のお嫁さんにした訳ですが、婚約者「有栖川宮」は後に官軍の総司令官となって恨みを晴らした?といいます)を進めた他、アメリカ初代総領事「タウゼント・ハリス」の通訳で、他国の領事館の世話もして人望厚かった「ヘンリー・ヒュースケン」が攘夷派の侍に暗殺された事件を治め(むしろ他国の領事の方が憤った事件)、小笠原諸島の領有を巡るアメリカとの最初の領土確定、フランス公使の使用人が怪我をした件で言いがかりを付けられた事に対しての毅然たる態度、対馬をロシア軍艦が不法占拠した際イギリス軍艦の手を借り追い払った件など、外交面で重要な役割を果たしました。諸外国公使達からの信頼も厚かったようです。

しかし、水戸藩の恨みは激しく遂に「坂下門外の変」で襲撃され命は助かるものの島津久光らにより失脚させられてしまいます。
「坂下門外の変」の絵図
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筆頭老中「久世広周」の籠
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最後に、これは作り話だと思うのですが「坂下門外の変」こぼれ話。安藤家が平藩に来る前の話しですが、安藤家は初代寺社奉行を務めた「安藤重長」、その祖父かつ養父で初期の鎖国政策に関わった秀忠の5人の重臣の一人でもある「安藤 重信」等、譜代大名でも老舗の貫禄のある家柄でありました(ここまでは事実)。
安藤家6代目で美濃加納藩3代目藩主だった安藤信成は将軍家斉の琉球使節の接待役を仰せ付かりましたが、琉球の舞姫に見とれ幕引きのタイミングをあやまり左遷、磐城平藩に飛ばされました。やけになった信成は平城で家臣一同を集めて盆踊りで憂さをはらしました。しかし、全員家を空けたすきに泥棒が侵入、根こそぎやられた・・・と思ったら泥棒は荷物を抱えすぎ身動きが取れない状態に・・。やがて平藩の侍に捕まった泥棒は、あまりの間抜けさに信成に無罪放免とされました。それから100年程、年月は流れ「坂下門外の変」の頃。「桜田門外の変」の後、浪士の動向を探っていた信正の下にある目明しから、武器を調えたもの達が襲撃の準備をしているという情報が入りました。その情報を元に腕利きをそろえて警護させた結果、信正は命拾いをしました。その目明しの名は「半七」、そう半七捕り物帳の主人公その人だったのです。彼の先祖は、彼の間抜けな泥棒だったのです。回りまわって100年後に恩返しが出来たという話しです。まあ半七は創作上の人物らしいので信憑性の無い話ではあります。

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この記事へのコメント

本や兎
2008年08月12日 20:36
スポッツ様、こんばんは。
「篤姫」見ていますよ。安藤信正の時代だったのですね。スポッツ様の解説のおかげでつながりました。更にドラマが楽しく見られそうです。ありがとうございます。安藤公は優秀な人材であったのに、あまり地元では詳しく知る機会がないような・・。これもお城が残っていないということの影響が大きいのでしょうか。彦根がうらやましいですね!平城再建の話も昔はあったようですが、地元、行政があまり動かなかったのかな?何より鉄道が堀を通るなんて他の地域には無いことでは?城跡をあまり貴重なものと、とらえられていなかったのでしょうね~。
それにしてもスポッツ様の最後のオチがよかったです。半七捕り物帖がそんなところに出てくるなんて思いもよらない展開ですね。ふふっ。。兎
スポッツ
2008年08月12日 22:10
本や兎様、こんばんは。篤姫は「家定」が出てきた頃から気合を入れて(笑)見る様になりました。史実と同じかどうか別にしてラブロマンスは泣けました。
安藤信正公は、もっと評価されて良い人物だと私も思います。やはり戊辰戦争で賊軍にされたのが後をひいているのかも知れません。平城再建はかなり真剣に動いた時期もあったようですが金銭的に上手くない状態が発生したようです。
それと、いわきの人間は気持ちの切り替えが早いのかもです。
半七捕り物帖の真偽の程は分かりませんが、こんな話しも結構面白いでしょう?(笑)
スポッツ
柳町
2008年08月25日 16:41
本日こちらにたどり着きました。
スポッツ
2008年08月25日 17:34
柳町様、こんにちは。
この前、訪問した際はお返事ありがとうございます。
篤姫、つっこみたい所はありましたが、薩摩の方が主人公ですのでしかたがないのでしょう。
スポッツ
代書屋
2009年02月16日 11:54
小生も やっとここに辿り着きました
スポッツ
2009年02月16日 21:57
代書屋様、こんばんは。
どうも磐城(や岩城)の殿様達の評価が低すぎるのが気になる所です。観光と結び付けられるものがあれば知名度も上がり感心を持ってもらえるのではないかと考えております。
スポッツ
代書屋
2009年02月19日 12:57
城跡の空き地も もったいないですね…
かって井伊直弼公の130年遠忌(特別展)で彦根城を訪れました 安藤家御当主が献茶をされました
彦根城の御殿の復元されてますし 熊本城も最近御殿が復元されました
城跡にいわき市に関わる全ての「歴史博物館」が出来るといいですね… もちろん城も復元して…
四月から高崎市の美術館で「安藤家展」が開催予定です(江戸初期の藩主でした)

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