京都弾丸ツアー⑥八つ橋の謎に迫る・前編・・聖護院八つ橋総本店→金戒光明寺

2010年4月29日内藤家と挙母藩(ころもはん)との繋がりについて追加。
後編⑦と同時にアップしますが、京都編⑥は、六段の調べで有名な近世筝曲の祖「八橋検校」と京都の代表的な御土産「八つ橋」についてのお話前編です。
今回の旅の参考書でもあった「八橋検校十三の謎」釣谷真弓著 発行アルテスパブリッシング 2000円(税別) を読んで頂けますとなお話しが面白いかと思います。八橋検校について分かり易く説明されています。筝曲を学ぶ方にもお勧めです。

前回、二条城を出た夢わく視察メンバーは今回の旅行のテーマの一つ磐城(現在の福島県いわき市)出身と言われる「八橋検校」と「八つ橋」の関係を探るべくタクシーで「聖護院八つ橋総本店」に向かった。
途中、京都御苑前でタクシーを止めてもらい窓越しに「堺町御門」を撮影。禁門の変(蛤御門の変)での激戦地の一つだった場所。
ちなみに蛤御門を守ったのは会津藩(現在の福島県の会津若松を中心とした地域)と桑名藩(と薩摩藩の増援)が主力だった。
蛤御門は開かずの門だったのが火災で門が開いた事から蛤の様だと名付けられましたが、桑名藩が守備していた大きかったのでしょう。
「其の手は桑名の焼き蛤」確実にこの諺が影響していると思われます。

ところで、会津藩藩主「松平容保」と桑名藩藩主「松平定敬」は美濃高須藩から養子に入った実の兄弟。会津藩は京都守護職、桑名藩は京都所司代と兄弟で「孝明天皇」を守りました。ちなみに桑名藩は元白河藩(現在の福島県白河市)藩主で老中も務めた「松平定信(徳川吉宗の孫)」が白河から転封されて治めた藩。会津藩は「保科正之(将軍家光の異母弟)」が藩祖。

この時の戦いも含めた功績で容保は孝明天皇より御宸翰(ごしんかん)と呼ばれる天皇自筆の感謝状をもらっています。これは武家に対するものとしては異例のものでいかに孝明天皇の信頼が厚かったかが分かります。
容保は、これを竹の筒に入れ生涯手放さなかったといいます。戊辰戦争で賊軍の将と呼ばれる屈辱の中、これが容保の心の支えとなったのでしょう。
撮影機材は大体iosKissX2とシグマ18-125㎜F3.8-5.6DC OS
画像をクリックすると概ね大きくなります
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タクシーの中から総本店の方に携帯で、これから伺う旨を告げたが場所が分かりますかと何度も念を押される?運転手さんに聞くと同じ総本店が何ヶ所かあるらしい。とりあえず熊野神社近くの総本店で降りる。
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だが本社ビルには見えないので店の人に聞き北側のもう一つ先の交差点を左折、京都大病院の西側にあるビルへたどり着いた。
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話しに夢中になって会談の模様は撮影しておりませんでしたが、企画室の木全様、取締役営業部長の稲垣様とお話をさせて頂きました。

ここで「八つ橋」と「八橋検校」の関係について・・。京都銘菓で修学旅行生の御土産の定番(定番なのは餡入りの生八つ橋ですが)「八つ橋」の名前の起源については2つの説があります。
「伊勢物語」の中に三河国(愛知県)八つ橋という所で咲くカキツバタを見て詠まれた句があるそうですが、この地に掛かっていたという八つの橋をモデルにしたという説。
写真は聖護院門跡近くの総本店内の絵
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もう一つは江戸時代の近世箏の創始者「八橋検校」に関係すると言う説。これが聖護院八つ橋総本店の謂れです。黒谷の金戒光明寺にある検校の墓を遺徳を偲び門弟達が訪れましたが、それにあやかり参道の聖護院で箏の形に似せた干菓子を販売(元禄二年)するようになったと言う説。(もう一つ検校にまつわる説がありますが、こちらは井筒屋八つ橋さんのHPをご覧下さいhttp://www.yatsuhashi.co.jp/origin/index.html
写真はいわき市での検校命日の献花行事に飾ってあった検校の肖像画・・写真内の「みよし」菓子店は「六段の調べ」をモチーフに箏の形の六段最中を販売しています。
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本来の焼き菓子タイプの「八つ橋」
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問題は八橋検校の名前の由来自体がカキツバタの方の「八つ橋」から来ているのであれば、どちらも間違ってはないのではないか・・ですが、そこらへんの事情が分かりません。唯、思い当たる節はあります。

それは八橋検校の重要なパトロン「内藤義概」通称「内藤風虎」の存在。
磐城(現在のいわき市)平藩内藤家3代目だった彼は内政は家老の「松賀族之助」に任せて文化活動(歌、俳句)等に力を入れた。歌等は京都の後水尾天皇や公家に教えを請い、側室も三条家から迎え、間に出来た子供に(嫡子を廃して)後を継がせている。

父、忠興の代に平藩お抱えになった八橋検校(当時は城秀という名)に対して莫大な金銭援助や十三の組曲の歌詞を付けたりするなど、かなり入れ込んでいたらしい。
ちなみに、いわき市の「勿来の関」の場所(真偽はともかく)を推定したのも風虎ではないかと言われている。強引に決めたとも思われる程、文化芸能好きなな風虎が検校の名前(芸名みたいなもの?)を「伊勢物語」から持ってきたとしても不思議ではないような気がします。

そういえばカキツバタの八つ橋がある三河の知立市に隣接する豊田市(車のTOYOTA)は、江戸時代、挙母藩(ころもはん)が治めていましたが最後の方の藩主は平藩内藤家から分家した泉藩内藤家(風虎の叔父)の家系(幕末の藩主は井伊直弼の兄弟や甥が養子となっておりました)。

追加、それだけではなく挙母藩を最初に治めていた三宅家から嫁いできたのが風虎の祖母。又叔母が三宅藩の室となっているため、カキツバタの八橋について感心があったのではないかと個人的に推測しています。(本家の内藤家も江戸時代中頃には日向延岡藩内藤家になっておりましたが幕末には井伊直弼の兄弟が養子として入っておりました。)
八つ橋(場所・名前・お菓子)には内藤家は深い縁がありそうです。

ところで、いわき市では三十数年前市を挙げて検校を取り上げておりましたが、いつのまにか下火になり良き理解者だったデパート「大黒屋」も10年ほど前に倒産。聖護院八つ橋総本店さんとの関わり(京都物産展)も殆ど無くなってしまったようです。いわき市の創生期、ハワイアンセンター設立時からのお付き合いだっただけに、もったいない話しだと思いました。

30~40分程のお話しも終わり、八つ橋の販売発祥の地、聖護院前のお店へ向かいました。
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ここのお店の看板は幕末・明治・大正にかけて生きた文人画家「富岡鉄斎」の手によるもの。何でも鑑定団でも取り上げられる事があるが、掛け軸でも何百万円くらいするらしい。
そういえば、この旅の最終目的地「だん王法林寺」には鉄斎が描いた「主夜神尊」の絵が納められた事があるらしい。確認はしませんでしたが。
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店内の商品
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カキツバタにちなむ物
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焼き菓子の八つ橋の色々なバリエーション
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餡入り生八つ橋「聖」の試食、宇治茶・黒糖・イチゴ等
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御土産は郵送に・・。
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ここでお昼の時間になったので、熊野神社向かいのお蕎麦屋さんで食事する事に。山田さんの希望もあり「鰊蕎麦」を食べる。イメージしていたように汁の味が薄いと言うこともなく、まずまずのお味。蕎麦は一般的な歯ごたえで、鰊はなかなか美味しかったです。
画像はパナソニックTZ3で撮影。
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お腹も膨れ、いよいよ金戒光明寺を目指す。
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聖護院門跡。
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京都らしい造りの家(町家?)
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黒谷の金戒光明寺は幕末に会津藩の本陣があった事でも有名だ。新撰組が会津藩に正式に召抱えられたのもこの地です。
入り口の門(トリミング及びリサイズしています)
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とりあえず記念撮影

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この先に進むと有名な三門があり、八橋検校の菩提寺、やつはし寺こと「常光院」がすぐ近くにある。

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やつはし寺「常光院」
この画像は山田さん提供(IXY L4)、クリックしてもあまり大きくなりません(640×480ピクセル)
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箏をかたどった石柱
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八橋検校のお墓がてっきりここにあると思い、訪ねるも誰も出てこない。電話をしたらなぜか出たので、お墓の場所を聞いたら3重の塔(文殊の塔)の裏側にあると言う事で、坂道・階段と少々きついコースを通り目的地へ・・。

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少し迷ったがようやく「八橋検校」のお墓に到着。
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八橋検校は通説では慶長十九年(1614年)~貞享二年(1685年)、
重要なパトロン内藤風虎(俳号の風虎は虎ノ門近くで生まれたから)は元和五年(1619年)~貞享二年(1685年)と同じ年に亡くなっている。
大阪で三味線の名手として名が売れていた、当時「城秀」という名前で当道と呼ばれる盲人の職能組織の下位(73刻みの位の下から5番目)にあった検校は20代の頃、江戸へ下りそこで「法水」と呼ばれる人物から筑紫箏(十三弦の箏の元祖)を習い、その後、寛永年間中期に磐城平藩(江戸屋敷)に召抱えられた。当時、風虎は15、6歳で彼が呼んだと言う事も考えにくい。磐城生まれ(諸説あり)という経歴がものをいったのか、そこは謎である。
検校の碑の拡大写真
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その後30年程、平藩に召抱えられた期間に風虎(風虎が平藩藩主になるのは、検校が去ってからの50代前半)の金銭的援助(賄扶持以外に)や作詞に対する協力もあってか、当道(男性盲人の保護・統括を行う職能組織)のほぼ最高位の検校の位になっている。
平藩の財政難のせいかお役御免となるが、すでに収入には困らない身でもあり、当道の本部がある京都へ上っていった。風虎が藩主になった7年後の翌年には十老と呼ばれる当道の最高幹部の地位に登りつめていた。
その後貞享二年に72歳に亡くなるまでに、三味線奏者としての経験から生み出したとも言われる平調子という江戸時代のリズムの基本や有名な「六段の調べ(正月等に演奏される、一度は聞いた事のある名曲)」の完成等、近世筝曲の基礎を築き、その流れは生田流、山田流に受け継がれ、やがて源流の八橋流自体は廃れていった・・・・と思ったら実は意外な所に残っていた。
と言う話しで次回⑦八橋の謎へ迫る・後編+会津藩墓地」

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この記事へのコメント

みぃ
2008年10月14日 15:17
こんにちわ、スポッツさん♪

*゚・:。ワァ(・∀・)オ。・:゚*
今回も、更なるお詳しいレポート!
さすがはスポッツさんでございます^^

私なんぞは、一度読んだだけでは分かりません^^;
なので、気の利かないコメントになってしまいます…(*_ _)ペコリ
と、前置きをして…、
生八橋ダ~イスキです♪
子供の頃は苦手でしたが、
あのニッキがいいですね。

聖護院と言えば大きなカブを思い出してしまいます^^;
祖母が作る粕味噌のお漬物を思い出し懐かしいです。




スポッツ
2008年10月14日 18:12
みぃ様、こんばんは
今日は地元のラジオ局で録音があり携帯の電源を切ってそのままにしてしまいコメントへの対応が遅れました。すみませんでした。
ブログ、自覚はしているのですが書き込み過ぎてますね(;´Д`A ```
地元のイベントにも絡んでいるものでつい・・。
そういえば、生八つ橋は大人になってからの方が好きになってるような。ニッキの匂いも良いですよね~。
聖護院はカブ有名ですよね。
お祖母さんの味ですか、私も子供の頃は祖母に面倒みてもらっていたので、その頃の味が懐かしいです。
世話になったのに結局、お祖母さん孝行できなかったな・・・。
スポッツ
本や兎
2008年10月14日 21:08
スポッツ様、こんばんは。
ラジオの内容は八橋検校や招き猫の話でしょうか?12月からのイベントに向けてですね。
「六段最中」懐かしいですねぇ家に年寄りがいたころはよく食べました。口の裏に皮が張り付いて食べにくいんですけどね…。八つ橋にもいろんな種類があるものですよね。わたしもみぃ様同様生タイプが好きです。1箱くらい平気で食べちゃいそう。
鰊蕎麦、遠野の例のお蕎麦やさんにもあり、とてもおいしいですよ~。だけど、わたしもはじめて鰊蕎麦を食べたのは京都か大阪だったかも。関西の食べ物なのでしょうか?
食べ物の話ばかりになってしまいますが、「其の手は桑名の焼き蛤」ってそうだったのかぁと今回も歴史のお勉強させてもらいました。会津藩藩主「松平容保」と桑名藩藩主「松平定敬」が兄弟というのも、そんなつながりが…とびっくり。
八橋検校については、やっぱり芸術家にはパトロンの存在は大きいのだなぁとつくづく…。そのパトロンさんが勿来の関の位置まで強引に?す、スゴイです。兎
スポッツ
2008年10月14日 22:21
本や兎様、こんばんは。SEA WAVE FMいわきの番組中に「心のアルバム」と言う番組がありまして出演者の好きな音楽と思い出を話すというものです。月曜日の10時から30分の番組ですが、思った事の半分も話せませんでした、内容は兎様のご指摘の通りでした。
フラオンパクの私のプログラムでは能は資金・場所・時間の関係で組み込めませんでしたが、お箏・子供じゃんがら・エイサーは披露する予定です。
最中は確かに口の裏につきますよね~。
八つ橋、私も油断していると一箱行くかもしれません。
鰊の加工は昔、新鮮な海産物が手に入れにくかった場所等で魚を食べるために工夫されて出来たらしいです。
蛤御門の件は、確かめておりませんが状況証拠があまりにもぴったり。容保と定敬は偶然に配置されたのかも知れませんが兄弟同士は心強かったでしょう。
有名な芸術家にパトロンさんがいれば気兼ねなく創作活動が出来ますので重要ですよね。内藤風虎は文化芸能を愛するあまり脱線に近い事もしましたが今となれば、それがいわきの為になったとも言えますね。
スポッツ
nashitsubo
2008年10月18日 00:04
スポッツ様、こんばんは。
本当に力の入った文章に思わず引き込まれました。八橋検校はお琴の名手とは知っていましたが、いわき出身の方とか、また三味線を弾かれるなどは全然知りませんでした。いろんな逸話もあり、スポッツさんのご説明でまたひとつ勉強できました。
それでついつい食べ物のほうへ話がいってしまいますが、八つ橋はやっぱり生がおいしいですね。母などは昔からある焼いたほうがおいしいと言っていましたが、昔の人は歯が丈夫なのでそれでもよかったのかなと思います。今はどこのスーパーにも置いてありますが、小さい頃はお寺参りの帰りに、河原町三条の角にあった八つ橋屋さんで買ってもらうのが楽しみでした。八つ橋のいわれはいろいろあるようですが、八つ橋屋さんもたくさんあるので、いろんないわれがないと困るのかなと思ってしまいます。
金戒光明寺へは今年初めてお参りする機会があったのですが、本堂に用事があったので、他のところへは行かずじまいで、八橋検校のお墓があるとは全然知りませんでした。石段の勾配がきついので、次行くならあまり年がいかないうちにしたいと思います(^^;
次に続きます。
nashitsubo
2008年10月18日 00:07
さて、続きです。
最初にあった堺町御門近くは私の先祖にゆかりのあるところなので、多少調べてはいるのですが、蛤御門はここにコメントを書かせていただこうと思って調べたら、この名のついた年代に2説(1708年説と1788年説)あって、書くのに困ってしまいました。これを書き出すと止まらないと思うので、また整理がついたらブログに書きたいと思っています。(そもそもこれでコメントを書くのが遅れてしまったのです)
それから、鰊蕎麦は年越し蕎麦として食べることが多いですね。鰊自体は、身欠きニシンを使っておナスやじゃがいもと炊いて食べるのが京都では一般的です。最近は身欠きニシンもソフトのものが出回るようになって、料理もしやすくなりましたが、以前は水で戻すのも一苦労でした。
では次のを読ませていただきますね。
スポッツ
2008年10月18日 15:02
nashitsubo様、お忙しい中のコメントありがとうございます。又、自宅PCがネットに接続出来ないため、返事が遅れまして申し訳ありません。
八橋検校(と袋中上人)は、来年の湯本町のイベントプログラムの一つとして取り上げる為、調べてみたら色々分かった次第です。いわきが案外に京都との繋がりがある事わかり驚きました。
「生八つ橋」は美味しいですよね、ついでに歴史に興味を持てれば、なおお徳かもです。
金戒光明寺は検校の他にも有名な方のお墓もあったりして穴場?適存在です。それにしても年を取ってからでは、あの石段はきついですよね・:∵(;´∀`A)
蛤御門は勘違いしてたかな・・。nashitsubo様のお話をお待ちしてます。
鰊は年越し蕎麦用の需要が多いのですね~初めて?食べたのですが美味しかったです。昔の用に保存食として使わなくなったのでソフトタイプが出来たのでしょうね。炊いたものも食べてみたいです♪
スポッツ
みそら
2008年10月18日 19:29
スポッツ様こんばんは。
八橋検校は内藤風虎から権力とお金を得ていたのですね。その当時の城下の町民達からすれば、政治に力をいれてくれないお殿様だったんでしょうかね・・・
でも、文化面に力を注ぎ後世に名を残すお殿様になったのも事実ですね。
八橋検校のお墓もとっても立派で驚きました。
みそら
スポッツ
2008年10月19日 10:07
みそら様、こんにちは。遠野町て携帯の電波が弱くて返事が遅れまして、すみません。
さて八橋検校も、そうですが芸術家・音楽家などは特にパトロンの存在が重要です。資金面、活躍の舞台を与えてくれる貴重な存在です。
風虎が内藤家を継いだのは五十過ぎと言う事もあり余計内政に力が入らなかったのかも知れません。
でも、いわきの文化芸能には大変重要な殿様でした。風虎の義理の叔父「保科正之」存在も大きく、これにより間接的に将軍家・天皇家とも遠戚関係に なり文化活動で有利になっと思われます。
内藤家は調べる程面白い存在です。
スホッツ゚
jin
2013年05月10日 17:43
スポッツさま
京都のお土産「八つ橋」の由来を調べていたところ、やっと納得(?)ができる解説に逢えました。感謝、感謝です。
聖護院八ツ橋さんの「菓銘のいわれ」では、高名な歴史学者に由来を委嘱して検証した結果、八橋検校由来説を採用したとありますが、この説明では赤子の頭しかないわたしには疑問だらけでした。
だって、そもそもなぜ「八橋」検校なのか? 「一橋」でもなく「三橋」でもなく、「城秀」が何故に「八橋」になったのかが説明されなくては、赤子には納得できません。
推察するに、京を代表する銘菓の由来が三河国の八橋(京都からみれば超田舎)では、都のプライドが許さなかったのか、なんて勘ぐってしまいます。
それはともかくとして、八橋検校の「八橋」の由来がスポッツさんの伊勢物語説なら、わたしも納得です。
ちなみに、わたしの出身地は三河国で、カキツバタの無量寿寺は小学校のときの遠足コースでした。そして、1年前から京都に住んでします。

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