磐城平藩戊辰戦争戦没者法要

昨日8月11日は平安会(元平藩安藤家藩士子孫の方達の親睦会)による、戊辰戦争平藩戦没者の法要が行われました。
この法要は、明治20年頃から毎年お盆直前に行われているようです。この日は旧暦でいえば6月21日頃に当り、慶応四年=明治元年の、その日は一週間程前に平潟港に上陸した官軍と磐城勢が植田付近で交戦中の時期でした。平城が落城するのは3週間くらい後の7月13日=現在の8月30日頃でした。

さて法要の場所ですが、いわき市平の松ヶ丘公園(安藤信正公銅像があります)の線路を挟んで向かい側高台にあります良善寺です。
詳しくは去年の記事。→井伊直弼」亡き後のリリーフ・平藩藩主「安藤信正」・・・・・いわき市平 龍ヶ城美術館
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平城から移築した戊辰戦争の弾跡が残る門越しに会場の本堂が見える。
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今回は、平安会の三村様や松井様達のご好意により法要に参加させていただきました。
法要には、元平藩安藤家の現在の御当主様や藩士の子孫の方々等がご参加なされており、厳粛な雰囲気の中、式は進みました。
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前香炉と言うのでしょうか、安藤家の家紋の上がり藤がはいっています。
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戊辰戦争で亡くなられた54名の名前が彫られた御位牌。
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法要では亡くなられた藩士達全員の名が読み上げられます。読経・焼香の後に巻物を見せて頂きました。
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巻物のオリジナル。
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記念撮影の後。
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墓参へ。
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去年撮影した安藤家のお墓。
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その後ろに安藤家を守るように立つ戦没者のお墓。
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磐城の戦い、緒戦の平潟港・勿来での官軍迎撃において、磐城側は官軍軍艦「富士山」の艦砲射撃を受け劣勢になりました。この際、徳側義軍遊撃隊の林忠崇達が官軍兵士の猛攻を同時に受け、撤退もままならず自決を覚悟しました。
この時、大砲一門で一人で「富士山」に立ち向かったのが、平藩軍事方「山田省吾」でした。
彼が放った砲弾は続けざまに富士山に命中、一発が甲板を貫き機関部を破壊、もう一発が甲板の弾薬の誘獏を引き起こし、船を撤退させる事に成功。
遊撃隊は3番隊隊長「和多田 貢」を失いながらも、戦場から撤収、林忠崇も自決を免れました。

後に山田省吾(山田勝任)は、平城攻防戦の際の市街戦で命を落とします。亡くなった平藩藩士の中では、石高順の序列2位の彼のお墓が、この写真です。
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山田家の家系で湯長谷藩へ養子に行った方の子孫が現在、お墓を守っています。写真手前、右から2番目の方が、その永山様です。
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近くにある山田家のお墓。
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供養塔に手を合わせる安藤家当主「安藤綾信」様(右端)。
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安藤家初代は高崎藩藩主・安藤重信公で2代将軍徳川秀忠の信任が厚かったお殿様。
2代目安藤重長公は初代の寺社奉行を務め、又、将軍家光の弟「徳川忠長」が高崎藩預かりとなり、彼の自害を見届けるという苦い思いをしている。
以後、備中松山藩→美濃加納藩等を転任しながら幕府の重職を務める家柄でありましたが、5代目が家老の誘いにのり遊蕩の限りを尽くし、家中に騒動を起こし、隠居。

その影響で6代目安藤信成公が磐城平藩へと転封させられ、平藩安藤家初代のお殿様となったのです。
老中も務め、風雅にも通じ冷静沈着というか常にマイペースで物に動じない方でしたが、ユニークな逸話も多く、琉球国からの使節団(江戸上がり)の接待の際、琉球の美しい舞姫の踊りに目を奪われ任されていた幕引きに2度失敗して将軍に怒られたとか、本当かどうかわかりませんが、平へ転任したさい景気づけに家来を集めて城内で家伝の踊りをしている最中に泥棒に入られ、その泥棒が捕まった際も着任そうそうなので許してあげたとか太っ腹な所のある憎めない方でした。
信成公も入る安藤家墓所の隣の寺が、琉球国に渡り活躍した袋中上人のお寺「菩提院」というのも何か彼と縁がある感じもします。

さて平藩安藤家と言うと安藤信正公が一番有名かもしれません。井伊直弼亡き後、公武合体政策を推し進め、又困難な幕末の外交の舵取りをし、アメリカ公使通訳のヒュースケン暗殺事件の際、他の外国公使達による日本国との戦争論を治めたり、ロシアに占拠された対馬の奪還に成功させたりしたした方です。
隣国水戸藩浪士達の暗殺未遂(坂下門外の変)と薩摩藩の横槍で失脚・隠居。

後に戊辰戦争「磐城の戦い」では不在の藩主の変わりに平藩を指揮し官軍と一戦を交えました。
仙台藩・相馬藩・米沢藩・徳川義軍遊撃隊・純義隊・彰義隊残党(春日佐衛門、新撰組の相馬肇・野村利三郎)等諸隊の応援を受けましたが、装備・兵力・地元民の手引き等により平城落城、相馬藩領内まで戦いは続きましたが、相馬藩の降伏に伴い磐城の戦いは終わりました。
賊軍として処罰を受けた信正公は、晩年、寡黙になり殆ど人と語る事も無く亡くなりました。

賊軍にされてはしまいましたが、水戸藩士の暴走が無ければ、幕末も変わっていたかもしれません。
功績を考えればもっと評価が高くても良い殿様であったと思います。
信正公の肖像画。
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この後、平安会の会議へ参加し、会員の皆様へ紹介していただきました。仕事があり途中で失礼させていただきましたが、皆様親切な方ばかりで短時間ではありますが色々お話を伺う事が出来ました。
又、お茶の宗家でもあります安藤家当主、安藤綾信様もお優しい方で、お話を聞かせていただきました。
この場をかりまして、後当主様・平安会会員の皆様方に感謝とお礼を述べさせていただきます。
誠にありがとうございました。






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この記事へのコメント

刻人
2009年08月15日 21:16
スポッツ様、こんばんは。

戊辰戦争にこれだけ『いわき』が関わっていたなんて知りませんでした。

いわきは歴史的に面白みがない土地だなと思っていたのがお恥ずかしいです。

スポッツさんのブログはいつも勉強になります。

ちなみにカトラリーの箱もう少しで完成です。

出来たらメールしますのでもう少々お待ちくださいませm(__)m
スポッツ
2009年08月15日 22:31
刻人様、こんばんは。
知らない人も多いですが、磐城も確かに戊辰戦争の只中にいた時期がありました。
各地から色々な舞台が集まり、激戦を繰り広げたのですが、戦に負けた方は歴史の影に追いやられる事が多く、現在の様な状況になりました。
戊辰戦争ばかりでなく、いわきの歴史には色々興味深い話がありますので、これからも紹介していきますので宜しくお願いします。能満寺でのエイサーの記事も、もう少しお待ち下さい。
カトラリーの箱、お待ちしています。
では
スポッツ
本や兎
2009年08月29日 14:40
スポッツ様、こんにちは。
スポッツ様の記事を読むといわきの歴史がわかりやすくてよいです。肖像画によれば安藤信正公はなかなか素敵な方ですね。お殿様ですからルーツはわかりやすいのでしょうが、私、自分のルーツを探ろうとして、なかなか進みません。磐城平藩もそうですが、身近な歴史をもっと大切にしてもいいですよね。兎
スポッツ
2009年08月29日 17:13
本や兎様、こんにちは。
安藤信正公は中々、ハンサムなお方だったようで、また外国公使との接待もスマートにこなし、会合にカステラ等を出すなど当時としてはハイカラな方でした。
自分のルーツ、やはり親戚の方で詳しい人から聞いておくとかして家系図を作成しておくのがいいかもです。
私も身近な歴史も大切に伝承しないといけないと思います。
スポッツ
我が家の先祖も平城で戦死しました
2010年09月27日 15:44
我が家は、代々相馬藩の家臣で、戊辰戦争の時、当時、16歳だった跡取り息子が、平城での戦いに加わり、鉄砲の玉で戦死しています。我が家の相馬の墓には、その先祖の墓石があります。因みに、私の妻は、鹿児島・薩摩の出です。今は、戊辰戦争も恩讐の彼方の歴史ということでしょうね。
スポッツ
2010年09月27日 21:24
「我が家の先祖も平城で戦死しました」様、こんにちは。
相馬藩の前線近くという事情があったとはいえ、やはり勇猛果敢に戦って下さった御先祖様に感謝致します。

磐城の戦い、中盤の要衝・新田峠でも若き相馬藩の侍が亡くなっております。

私が最近知り合った方も薩摩の方ですが、沖縄の為に頑張ってらっしゃいます(400年程前の薩摩の琉球征服の話に対しての事もあり)。
140年位ですと、まだ先祖からの伝承で生々しい話も残り地区によってはまだ遺恨を残してはおりますが、恨みは水に流して和解して欲しいものです。
ちなみにいわき市は戦いがあったのを知らない人間も居るくらいで、あまりそういう話は聞きませんね。

スポッツ
Andohmusicworld
2013年04月28日 20:23
同じ安藤家 家紋も同じ 心打たれました

音楽をやっている身ではありますが

たまたまお邪魔したサイト楽しく読ませていただきました
http://www.facebook.com/#!/nobuaki.andoh

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  • 西暦1868年 - 戊辰戦争

    Excerpt: 1868年1月、旧幕府軍と新政府軍が京都で衝突、戊辰戦争が始まる。戦争中に徳川慶喜は退位し、翌年、箱館五稜郭の榎本軍が降伏し、戦いが終わる。 Weblog: ぱふぅ家のホームページ racked: 2009-10-18 15:47