新撰組局長伝説 野口家に来たカモ

注、当ブログは管理人の主観とのりで書かれており、玉におやじギャグが含まれますが、不快に思われる方は御容赦下さい。

「青い眼の人形」、「赤い靴」、「シャボン玉」等で有名な童謡作家の野口雨情は大正時代の数年間、常磐湯本町に住んでいた事がある。湯本駅で電車の発着に「シャボン玉」が流れているのは、その所為だ。

雨情さんの故郷は、湯本町から車で南に40分程で着く北茨城市磯原町にあります。雨情さんの家は幕末には尊皇攘夷で活躍した先祖達が出ている郷士の家柄で、中には近所に住んでいた若かりし頃の新撰組局長・芹沢鴨に影響を与えた人もおりました。
彼らが所属していた水戸藩は、尊王攘夷の先駆けでもありますが、その攘夷思想に大きな影響を与えた事件が磯原の近く大津で起きた「大津浜事件」でありました。

大津浜事件は、後程記述しますが、大津では事件から120年後の太平洋戦争末期には、風船爆弾攻撃・・「ふ号作戦」と言う軍事作戦も行われています。

風船爆弾の放球は、雨情さんが(疎開先の栃木県で)亡くなる時期と同じ頃に行われていて、場所も生家から見えるくらいの距離でした。
「シャボン玉」とは違いこわれて消えない風船は「青い眼の人形」、「赤い靴」のアメリカ目指して、爆弾を積んで旅立って行きました。
雨情さんが、この風景を見る事があったら嘆いたことでしょう。

さて、そんな話を交えながら、買い物や自然食レストランやコーラスを楽しむと言うカオスなツアーがフラオンパク3プログラムの一つ「新撰組局長伝説 野口家に来たカモ」である。
スポッツ担当プログラムのトリである、カモだけに・・。
*ガイドを務めていた為に写真は以前に撮影した物を多用しております。


朝9時に湯本駅を出発、石炭化石館近くの駐車場により全員を乗せバスは出発。参加者24名、スタッフ3名、添乗員をしてくれた従姉妹の亭主を含め総勢28名(運転手を除く)。出発時から途中までのサポートを吉田さんと坂本さんがしてくれました。感謝です!

最初に向かったのは天心記念五浦美術館に通じる道路沿いの慰霊碑。昭和19年11月~20年3月頃まで、行われた「ふ号作戦」すなわち風船爆弾が、ここ大津や勿来の関、千葉一宮から発射された。
太平洋戦争の劣勢を挽回する為に、ジエット気流に風船爆弾をのせアメリカ本土を攻撃したのであるが、風任せと冬場の攻撃という事もあり、搭載された焼夷爆弾もあまり効果を発揮出来なかったようだ。
もっとも、細菌・化学兵器や特攻部隊の運用を恐れたアメリカ軍にはプレッシャーとなり、防空にかなりの費用と神経を使わせたと言われています。

こちらの慰霊碑は別の場所にあったものをリニューアル?して設置したものです。
風船爆弾開始直前の爆弾点検中の爆破事故と、放球開始直後に、気球から脱落した爆弾が発射係りの兵隊に命中した事故で6人が亡くなりました。
作戦は軍の秘密事項であった為、6人は戦死として処理されました。
後に、その事を知った地元の方が最初の碑を建てたそうです。
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ここから少し進み海岸側の道に出ますと、風船爆弾平和の碑があります。碑には、もう一つの悲劇、オレゴン州の子供爆死事件の話も刻まれています。
終戦も近い1945年5月5日にオレゴン州の公園にピクニックに来ていた子供達と引率の牧師婦人の計6人、夫人は妊娠中だったので合計7人が木にぶら下がっていた爆弾に接触して死亡しました。
先の日本軍6人と7人の計13人が風船爆弾による犠牲者でありました。
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太平洋戦争時、国内で使われた鬼畜米英のスローガンは言わば攘夷の焼き直しとも言えます。又、七生報国(楠木正季)や回天(藤田東湖の回天詩史)等の言葉も元はと言えば、水戸の尊皇攘夷の流れから来ており水戸黄門の愛した土地の近く(勿来の関も含め)から風船爆弾が放たれたのも運命だったのかも知れません。

さて、風船爆弾の地からバスで数分の大津港へ向かいますと、坂の途中に「大津浜異人上陸事件」の説明看板が立っています。
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ペリー来航の30年前には、太平洋のマッコウクジラを撮り尽ながらアメリカ捕鯨船はハワイへ到達、まもなく日本近海の猟場を発見。多数の捕鯨船(当初は60隻くらいでペリー来航の頃には200~300隻)が押し寄せておりました。この時期が「白鯨」の舞台で、小説内では明記しておりませんが、小笠原諸島近海が白鯨との戦いの場であったようです(ちなみに鯨に船が沈められる事件はこの時期に実際にありました・・「復讐する海―捕鯨船エセックス号の悲劇」が詳しいです )。

ところで当時、捕鯨の対象になっていたセミクジラとマッコウクジラは沿岸回遊と沖合い回遊の違いこそあれ、死んだ後に海面に浮くクジラでありました。
どちらも鯨油が取れる点では同じですが、セミクジラは食用向き、油は一般照明、ひげがコルセットや傘の骨の用途に使われました。これに対して、マッコウクジラは,そのままでは食用に不向き肉(蝋油を大量に含み、下痢を起こす・・消化されないで上から下に直行)頭部からワックス(蝋)系のより工業用に向いた油や高級な鯨蝋が取れ、体内から稀に竜涎香と言う高級な香水の元が取れる事もありました。マッコウクジラの方がお金になったようです。

捕鯨の中心になっていたのは、ナンタケット島の船乗り(後にニューベッドフォードが中心になる・・ジョン万次郎もこちらの捕鯨船に拾われた)を乗せたアメリカ船でしたが、中にはイギリスの捕鯨船も混じっておりました。
当時、イギリスの囚人が大量にオーストラリアに送られており、囚人船の任務を終えた船が帰り道に捕鯨を行っていたケースもあったようです。

それら捕鯨船の船員と接触した漁民達が異国の品々を水戸領内にもたらし、水戸藩では問題となっておりました。多数の異国船目撃の情報から、異人の領内上陸はもはや避けられないとして領内には警戒態勢が引かれておりました。

そして1824年にイギリス捕鯨船の乗員12名が大津浜に上陸、この辺を歩き回り漁民達に食料と彼らの品物との交換を求めました。やがて村人達は彼らを捕らえ、藩に通報。
高萩に領地を持つ水戸藩城代家老中山家の兵や水戸藩兵等数百名が集まり、物々しい警戒態勢が取られました。詳しくは「黒船異聞」川澄哲夫著・有隣堂にて、ジョン万次郎やペリー来航についても詳しく載っています。
乗員が歩いた場所付近。
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そして水戸藩の学者・会沢正志斎が捕鯨船船員の尋問に当りました。正志斎は鯨獲りのために日本まで来た事が信用出来ませんでした。自国近海で獲れるものをなぜ日本まで来たのかと考えた訳です。外国捕鯨船の乱獲のスピードが理解出来なかったのでしょう。彼は捕鯨船を侵略の尖兵と考え、これが以後水戸藩に攘夷思想が広まる切っ掛けの一つになりました。
事件は幕府の調査団の尋問により、壊血病治癒の為の野菜等の生鮮食料品の確保が目的と分かり、食料・水・薪を与え釈放しました。
ところが、同じ年に薩摩藩の宝島と言う場所で別のイギリス捕鯨船が騒動を起こし、翌年の1824年に異国船打ち払い令が布告され、
その直後に大津浜に到着したのが藤田東湖でした。彼は異人を斬りに現れたのですが、父・藤田幽谷と別れの杯を交わしていたため(飲みすぎか?)遅刻したのでした。この時の出来事が回天詩史(本物は読んでないですが)にも書かれています。大げさにいえば、回天という言葉は大津浜事件が原因で出来たとも言える?でしょう。

現在では捕鯨が大津近海であったとは想像出来ませんが、何年ヶ前にすぐ近くの五浦海岸にマッコウクジラが打ち上げられた事件もあり、確かに鯨は来ていたようです。(そのマッコウクジラの骨格標本は現在、アクアワールド大洗で展示されています)。

大津浜異人上陸の地から車で数分の場所に、北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」と物産館があり、お買い物も楽しめます。
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資料館内には、大津で4年に1回開かれる「御船祭り」の船が保存されています。長さは15メートル程で、セミクジラやマッコウクジラとほぼ同じ長さになります。
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お盆の時期に死者の霊を弔い海に流す船や、南限に近い、じゃんがら念仏踊りの衣装・道具が展示されています。
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2階にはアンコウについて学べる展示があります。
外では、「どぶろく&あんこう鍋祭」というものも開催されていたのですが、雨もあり屋外は寒く、アンコウ鍋を頂いた後に物産館へ退避しました。

物産館では、シラスや練り物製品・その他海産物が売られており、焼きたての練り物は中々の美味。スポッツお勧めは、おつまみ「あんこう直火焼き」。鍋とかに使えないサイズの小さな物を乾き物にしたものでカワハギの乾き物のようで美味しいです。
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資料館・物産館で見学・休憩・買い物を済ました後に、今回のタイトルにもなっている新撰組局長・芹沢鴨縁の天妃山・弟橘姫神社へ向かいます。大津港からは車で10分程で到着。
ここは茨城県でもっとも低い山、というか丘ぐらいの高さの場所で、野口雨情生家の目の前でもあり、雨情の子供時代の遊び場でもあった所です。神社入り口左手には、雨情の義理の叔父でもある、常磐炭鉱北茨城側の祖・神永喜八の功績を称えた碑があります。字は榎本武揚によって書かれたものだそうです。
雨情さんが湯本の炭鉱の事務員さんになったのも、この叔父さんとの繋がりがあるのかも知れません。
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神社階段を登りますと、弟橘姫神社があります。元々は、水戸光圀公が、ここにあった神様を別の場所に移し、中国の海の神様、天妃(媽祖)を祀った事に始まります。
後に徳川斉昭が、日本の神様を置かないと宜しくないという事で、弟橘姫(ヤマトタケルの妻)を祭ったとの事です。
光圀公通称・黄門様は、明からの亡命者・朱瞬水から朱子学を学び水戸学(尊王思想でもある)を起こしました。朱瞬水は黄門様にラーメンを食べさせた事で知られており、これが日本のラーメン事始だそうです。
尊王思想は、ラーメンと共に水戸黄門様が始め、攘夷思想は鯨と共に水戸藩で育ち、尊皇攘夷思想が水戸から発信される事となりました。

野口雨情の祖父・野口友太郎、その弟・西丸帯刀、そして彼らの従兄弟・野口哲太郎正安も、藤田東湖等の影響を受け尊皇攘夷の思想を見に付けておりました。

そこへ弟橘姫神社の神官としてやって来たのが、近くの南中郷の下村家の養子・下村継次でした。その存在は、下村家分家の伝承に残るのみで、茨城県行方市の芹沢家資料や新撰組・長倉新八の話と付き合せると、若き日の芹沢鴨(新撰組局長)であったようです。残念ながら、北茨城側に精細な資料が無いために、北茨城で正式に取り上げる事が出来ません。仮にあったとしても、新撰組関係者がいたと分かれば、新政府からどんな言いがかりを付けられるか分からない為処分したのではないでしょうか(憶測ですが)。

弟橘神社。
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この位置はハワイアンズ別館「山海館」の真上に当ります。この松の下には黄門様が腰掛けたと言う場所がありますが真偽は定かではありません。
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ふもとの公民館脇には、ペリー来航の前年に吉田松陰が東北の海防状況視察の旅に出た際水戸を通り、近く野口家分家(野口正安とその父の家)に寄って一泊した事についての記念碑があります。
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下村継次(芹沢鴨)は、野口家分家の野口正安の影響を受け、後に天狗党の母体になる郷校(玉造勢)の活動等に加わります。後に、戊午の密勅(安政の大獄の元にもなった朝廷から水戸藩に下された攘夷実行要請書)の返還阻止運動(長岡屯集)に正安等と共に加わります。そのメンバーの中から桜田門外の変の参加者が出ており、正安も第2次襲撃のメンバーとして待機しておりました。後に正安・継次は投獄されます。

桜田門外の変の後に幕府を引き継いだのが、磐城平藩藩主で老中の首座(久世広周が首座とする場合もあり)となった安藤信正公でした。
信正公が就任した頃、その暗殺計画を企てていたのが、西丸帯刀でした。彼はデビューしたばかりの長州藩士・桂小五郎と成破の約を結び、さらに過激な活動に入ります。
信正公の指揮のもと、日普修好通商条約が結ばれた1861年5月にはイギリス公使館だった東禅寺襲撃事件を起こたりしております。余談ですが、この頃幕府顧問として信正公に呼ばれていたシーボルトは襲撃事件に対するアドバイスを行っています。

戊午の密勅返還を執拗に水戸藩に迫っていた責任者が、信正公だった事から常々恨みを抱いていた水戸浪士は、日普条約にまつわる言い掛かり、シーボルトを召抱えた事への非難、孝明天皇天皇を廃帝しようとしたと思い込んだ事、女性関係の噂を流し、1862年2月13日(文久2年1月15日)に坂下門外の変を起こします。
実行部隊は全員返り討ちに遭いますが、駕籠の中に居た際に負わされた傷が元で、信正公は失脚。
信正公を失脚させた中心人物の島津久光は、同じ年に生麦事件を起こし翌年の薩英戦争で攘夷運動の転換を行う事になります。
さて、日普修好通商条約の仮締結直前に、プロイセンの手伝いをしていたヒュースケンを暗殺したのが清河八郎の一派でありました。八郎地震、人殺しをしていて幕府に目を付けられていた為に、尊王攘夷運動の傍ら、自身の恩赦や攘夷派の志士達の釈放に繋がる大赦運動を実行。その流れに水戸藩もあったのか、文久2年11月頃に正安・継次等も釈放されました。
翌文久3年2月には、将軍上京の露払いとして水戸藩は上京(京都)、野口一族も従っています。
同時期、清河八郎が結成した浪士隊も上京、攘夷を宣言した八郎から離脱したのが、下村継次改め芹沢鴨の水戸グループと近藤勇等試衛館グループでした。芹沢鴨・近藤勇が初代局長となって6月頃に新撰組が誕生します。

清河八郎はこの後、江戸にますが、4月頃に幕府の刺客によって暗殺。ヒュースケン暗殺事件現場から500m近くの場所で殺されたと言います。その線を結ぶほぼ直線状1km先には沖田総司の墓もあり、なんとなく不思議な気分になります。

芹沢鴨も乱暴狼藉が原因かつ水戸藩との繋がりが疑われたのか、会津藩の命により9月に近藤達に粛清されます。郷里に帰っていた正安も芹沢鴨の死を聞いて落胆したのでしょうか、10月に亡くなっています。

翌、元治元年(1864年)は天狗党の乱で水戸藩領内は戦火の渦に巻き込まれます、京では池田屋事件、蛤御門の変、下関砲撃事件、長州征伐等、日本国内は動乱の渦へと徐々に巻き込まれていきます。
野口友太郎は投獄され、西丸帯刀は身を隠します。
元治2年・慶応元年(1865年)水戸から一橋家養子となっていた徳川慶喜が家茂死去に伴い将軍に就任。
慶応2年(1866年)坂本竜馬の仲介で薩長同盟締結。
その頃水戸藩では保守派の諸生党と改革激派の天狗党の血みどろの争いで劣勢になった天狗党が慶喜のいる京へ向かうも見放され、幕府に投降、数百人が処刑されます。
慶応3年(1867年)大政奉還。水戸藩から始った攘夷運動は、水戸藩の人材壊滅を招きながら討幕運動の流れを巻き起こし、水戸藩の血筋である慶喜によって徳川幕府を終結させる事になります。
尊王攘夷運動の旗手という事で昭和の動乱においても水戸藩のイデオロギーが利用され、ある意味新しい攘夷の戦いとも取れる太平洋戦争へ日本は向かって行き、風船爆弾へと話が繋がって行きます。

それにしても、天下の副将軍を名乗り、徳川御三家としても幕府を支えるべき立場であって水戸藩が結果的に幕府を滅ぼすなんて事を黄門様は予想だにしなかったでしょう。
ちなみに野口家は、黄門様の血を引く家柄との伝説も持っています。雨情さんの祖父は戊辰戦争の最中、1868年福島で偵察連絡行動中に戦死。大叔父・西丸帯刀さんは、水戸藩の指揮官クラスとして函館戦争の参加、北海道開拓にも携わり、引退後は郷里(西丸家養子だったので大津に在住)で過ごし、雨情さんが湯本に来る前年まで生存しておりました。

そんな激動の時代を生き抜いた家庭に育ったからこそ、雨情さんは逆に童謡作家の道へ進んだのかもしれません。
野口雨情生家。生家の中にある資料館は撮影禁止になっております。今回は、雨情さんの孫の不二子さんに系図の説明をして頂きました。不二子様、有難う御座いました。
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野口家の激動の歴史に浸った後は、磯原の自然食レストラン「パンプキン」へ向かいます。今回、多数ご参加くださった湯本町の童謡等を歌う合唱団「すずめの学校」メンバーはパンプキンのマスター・マーク荒木さんの大ファン。荒木さんは湯本町出身で地元の中学校の私の先輩にあたります。
自然食プレートを皆で美味しく頂いた後は、荒木さんの恩師も所属しているすずめの学校メンバー合唱の時間となり楽しく過ごしました。伴奏は山名さんで北茨城で荒木さん達が行うコンサートのメンバーです。
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自然食プレート¥1,500
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北茨城民俗資料館・野口雨情記念館で雨情さん関連展示や風船爆弾模型や資料を見学した後に皆で記念撮影。
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野口家の歴史に関してはあまり説明出来なくて申し訳なかったのですが、お買い物や食事、合唱も楽しんで頂けた様で企画責任者としては嬉しい限りです。
ご参加下さった皆様ありがとうございました。












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