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4月20日(日)お花見ツアーの続きです。花見山の見学を終えて次は宮城県へ向かう事に。途中の福島県境までは、至る所に桃の花(食用の方)が咲いていました。福島県はフルーツ王国と言うくらい果物の栽培が盛んな所です。福島市周辺にはリンゴ、さくらんぼ、桃その他の栽培農園がたくさんあります。特に桑折町では時期には至る所、桃の花でいっぱいになります。車上からの撮影な上に画質も良くないので、その雰囲気が伝わるかどうか?福島は桃の生産量では全国でもトップクラス(1位は山梨県)で種類別なら「あかつき」という桃では日本一だそうです。「あかつき」は皇室献上品にもなっているそうです。 画像をクリックすると大きくなります。途中の白石市で昼食。「磐梯カステラ本舗白石店」というカステラ工場とレストランと土産物店が一緒になった所。金箔カステラやら各種カステラのデスプレイ。白石名物「白石温麺」(しろいしうーめん)。400年程前に胃の悪い人用にお坊さんが作り出したと言われる油を使わないヘルシーな麺。ウドン+ソーメン割る2みたいな感じ。美味しいです。「桜おこわ」や「温麺」の昼食。昼食を終え、バスは目的地の船岡城址公園へ。走ること20分程で公園内にある船岡平和観音と川堤沿いの「白石一目千本桜」も見えてくる。これは白石川の大河原町から柴田町までの8kmの区間に700〜800本程植えられているソメイヨシノ群のことを言う。大正時代この地域出身の「高山開治郎」と言う人が東京で事業を成功させ故郷への恩返しとして植えられたらしい。生憎と満開の時期は過ぎ大分散り始めていたのが残念でしたが、それでも見事。川堤沿いのJRの列車もこの時期は速度を落として通り過ぎていく。堤沿いに散歩する人達。船岡城に着いたのが午後1時40分頃、しかし山腹のバス用駐車場が一杯のために下で15分程待機する事に。時間が経ちようやく駐車場へ到着。ここには、「スロープカー」という線路を使った便利な乗り物があり頂上まで往復500円くらいで行けるのだが混雑していたため歩く事にした。しかし、すぐ後悔する事態になった。 急な上り坂「スロープカー」の角度を見れば、大変さが大体分かってもらえると思います。 けれども苦労して上った甲斐(駄洒落じゃないですよ)はありました。さて、この船岡城には2人の悲劇の藩主がおりました。一人は仙台伊達藩前期の家老「原田甲斐」こと「原田宗輔」、もう一人は幕末の「柴田意広」です。まずは「原田甲斐」から・・。伊達騒動(寛文事件)は仙台藩伊達家4代目の頃のお話。4代藩主の綱村の大叔父「伊達兵部」こと「伊達宗勝」が藩の実権を掌握、伊達政宗が天下を狙う為に作り上げた親戚・譜代を含む大家臣団が各々領地を持ち、いわば地方分権の時代に兵部は中央に権力を集中させる為に原田甲斐を仲間に引き入れた。これに対し地方分権派で伊達氏直系の「伊達安芸」こと「伊達宗重」は養子先の天童家から涌谷伊達家に戻りお世継ぎ問題等内政問題について幕府に訴えでた。結果、寛文11年(1671年)3月27日に騒動解決の為に江戸の大老「酒井忠清」邸にて両派の意見を聞く事になった。が、しかしこの場に置いて原田甲斐は伊達安芸を惨殺。安芸の家臣「柴田朝意」とも斬り合いになり原田甲斐は死亡。柴田も同日死亡した。本来なら伊達藩御取潰しになっても不思議は無かったのだが、原田甲斐の責任と言う事で決着。原田家は処分されてしまった。 写真は駐車場近くの城門。 結果、原田甲斐は藩を危機に陥れた奸臣として扱われてきたのですが、「山本周五郎」の「樅の木は残った」で評価が変わりました(ちなみに本は読んでないです)。この中では原田甲斐はもともと安芸の側で、伊達兵部が藩の実権を握り幕府と結託し伊達藩を潰すかわり領地の半分を貰い受けるとの密約を交わした事を知り、証拠を握るために兵部へ近づいた。そして、大老「酒井忠清」との密書を入手。裁きの場で突きつけたところ幕府の刺客に襲われ安芸や家臣は斬られてしまう。甲斐も刺客を切伏せるが瀕死の重傷を負う。喧嘩両成敗で藩が潰れる事を恐れた甲斐は苦しい息の中、全ては自分の乱心のためと証言。甲斐の心中を察した老中「久世大和守」こと関宿(千葉県)藩主「久世広之」(幕末、桜田門外の変の後、平藩の安藤信正と共に幕政を担ったのは子孫の広周)の仙台藩安堵の言葉を聞き息絶える。船岡城では兵部の陰謀により殺された前藩主の近臣の孤児で甲斐が引き取った宇乃姉弟の姉宇乃が宿所に孤独に立つ樅の木を見つめ涙をあふれさせていた。 といったあらすじにより原田甲斐の事が見直されました。公園内には、その樅の木があるそうですが時間が足りず回れませんでした(悔いは残った?)。 駐車場の奥にあったらしいが、枝垂れ桜の写真で勘弁して下さい。 船岡城から見える白石川、ここは昔から冬には白鳥が飛来しヤマトタケルの白鳥伝説などもある様に神の使いとされ大事にされて来ました。これと関係しているのが悲劇の藩主二人目の「柴田意広」でした。 話は伊達騒動から時代を200年程下った幕末の頃。慶応4年=明治元年(1868年)戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩は8月に官軍に降伏、仙台にいた旧幕府軍は榎本艦隊に収容され蝦夷地へ向かい函館政府を作りました。仙台藩の家臣である柴田家も官軍に降伏しておりました。そして柴田にやって来た官軍兵士達は事もあろうに白鳥を鉄砲で撃ち殺す、杭で殴り殺すなどの暴虐無尽の振る舞いを続けました。そういえば数日前に水戸の千波湖で白鳥達が殴り殺される痛ましい事件が起きましたが、心が病んでいるとしかいい様がありません。動物虐待は放置しておくと必ずエスカレートします。人間に手を出すという事にも為りかねませんので本人の為にも早く捕まって欲しいものです。 柴田へ来た官軍は人々の訴えには耳を貸さず虐殺を続けました。それを苦々しく思っていた柴田家でした。10月28日、しまいには官軍が船を持ち出し白鳥を殺しに行くに及び、家臣の2人が船に目掛けて銃を撃つ事件が起きてしまいました。もちろん唯で済む訳もなく、2人の内一人と逃亡した者の義理の兄弟の2名斬首。逃亡した者も後に捕まり処刑された。殿様の柴田意広も責任をとり切腹となりました。彼らの犠牲おかげで白鳥が殺される事も無くなり、この悲劇は現在まで語り継がれる事になりました。さて柴田家はお取つぶしとなり、残った家臣達は明治2年から始まった「開拓使」制度の下「蝦夷地」から「北海道」に名前を変えた北の大地へと移民する事になりました。北海道には明治3年から柴田の近く亘理(わたり)を治めていた伊達の分家「亘理伊達」家が移住をしており、後の北海道伊達市(有珠山のある所、サミット会場の洞爺湖にも近い)を創り上げた。彼らはそこを頼って行ったのでした。ちなみに白石からも、そこを治めていた片倉家の家臣達が移住しています。彼らは、あの太平洋を横断した「咸臨丸」最後の乗客でした。清水港において乗員を官軍に殺され死体を海中に放置されて「清水の次郎長」が弔った事件の後、輸送船として官軍のもと働いていた咸臨丸は開拓使の輸送船に所属を替え運用されていました。明治4年9月片倉家の家臣達を乗せ函館港から小樽へ向かおうとしていた船は強い風雨の中、風に流され木古内(きこない)町更木海岸で座礁、乗員は近くの住民に助け出され無事だったものの咸臨丸は数日後に海に沈みました。片倉家家臣団とその家族は、その後現在の札幌市白石地区を開拓して発展の礎を築いたのでした。北海道には東北各地、旧会津藩士達の屯田兵なども含めてたくさんの人達が移住しています。そのせいか、北海道の方言は東北の人間には馴染みのあるものが多々あります。「なまら」(すごい)は新潟?めんこい(可愛い)は岩手や福島県でも通用します。ゴミを投げる(捨てる)なども私は普通に使っています。いずれにしても開拓者達の苦労は並大抵の事では無かったと思います。当時、北海道にソメイヨシノがあったかどうか分かりませんが春になると故郷の桜を思い出したりしたのでしょうね。 公園山頂に立つ船岡平和観音像。昭和50年に野口徳三郎さんが亡き妻の冥福と世の中の平和と安全を願って立てた公園のシンボル。イベント時のみ内部開放(有料)で階段で上に昇れます。 花見の人々。 今回の旅は花見山・船岡城跡と歩きまくり足がガクガク状態になりましたが、この時期でなければ味わえない有意義なものでした。背中を押された旅でもありましたが、押されて感謝しております。v(^∀^) ぁりがと〜 スポッツ |
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スポッツ様、こんばんは。 |
本や兎 2008/04/30 00:05 |
本や兎様、おはようございます。船岡城公園跡は本当に眺めが良いですよ。スロープカーはイベント時にしか稼動してないかもなので注意です。桜の時期以外ガラガラらしいです。桜以外だと秋の紅葉の時期とかがイベントがあるらしいので出掛けるには良いと思います。あの坂を歩いて上がるのも、それはそれで貴重な体験が出来るかもしれません(笑) |
スポッツ 2008/04/30 06:40 |
こんにちは。 |
みぃ 2008/04/30 11:02 |
みぃ様、こんにちは♪長文になってしまいましたが、お読み下さりありがとうございます。桜のトンネルは、ゆっくり上がっていけば気持ち良いと思いますよ(時間に制限があるので急ぎましたが)。 |
スポッツ 2008/04/30 12:37 |
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