へたな写真も数写せば当たる?

アクセスカウンタ

zoom RSS 磐城の戊辰戦争@官軍平潟港上陸

<<   作成日時 : 2008/01/25 21:42   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 2

この話は管理人の主観により語られていますのでご了承下さい。
さて今から、140年前の慶応4年(1868年)戊辰の年に、あったのが明治政府と奥羽越列藩同盟との戦いで、世に言う「戊辰戦争」です。もとはといえば、会津の「松平容保」公が、京都守護職という警察の様な仕事を押し付けられたのが原因ともいえます。攘夷志士を取り締まるという火中の栗を拾う役目は、容保公はもちろん会津藩内でも受けるべきでないと意見が大勢でした。他の徳川家が責任逃れをする中、水戸徳川家出身「一橋慶喜、後の徳川慶喜」と田安徳川家出身の「松平春嶽」に無理やり押付けられてしまいました。(そもそも容保公は、桜田門外の変で殺された井伊直弼の紀州徳川家派の彦根藩と殺害した水戸藩との間を仲裁して中央政界にデビューしている)彼は財政難だった会津藩で家宝を売り払いながら身銭を切って職を務め「新撰組」を配下において尊王攘夷のテロリストな人達から朝廷を守っていました。しかし敵だった長州、薩摩藩は攘夷思想(外国人を追い出す)で騒乱を起こしていたのが、いつのまにか外国人の力を借り戦力増強。佐幕派だった岩倉具視が長州、薩摩と手を結ぶと松平容保公に絶大な信頼を寄せていた「孝明天皇」がなぜか崩御し、側室だった岩倉具視の妹が直後いなくなるという事件が発生、流れは長州・薩摩へと形勢逆転しました。徳川慶喜は将来の議会政治の首班をねらい大政奉還(主権を朝廷に渡す)して、戦いの名文を無くし逆転を計るも新政府は、それを許さず徳川家将軍の役を剥奪。これに怒った幕府側は新政府に戦いを挑みました。しかし錦の御旗を押し立てた官軍に「鳥羽・伏見の戦い」で大敗。慶喜は敵前逃亡、大阪から江戸へ逃げてしまいました。江戸に迫った官軍に対して「篤姫」の嘆願書、イギリス公使からの圧力を薩摩藩にかけた上で、残存勢力の幕府海軍の攻撃や江戸を火の海にする作戦をちらつかせながら「勝海舟」と「西郷隆盛」の「江戸無血開城」を成功させ引退してしまいました。血祭りの対象に逃げられた官軍は会津藩に目をつけました。長州、薩摩の明治政府が天下を掌握した事により、身内にも梯子を外された会津藩は一転して朝敵とされてしまいました。新政府により会津(と庄内藩)討伐の命が下された東北の各藩でしたが、会津に同情的だった仙台藩や米沢藩はのらりくらりとかわしつつ助命嘆願を行なおうとしていました。しかし官軍の奥州(東北)を平定する軍を率いていた「世良修蔵」が書いた「東北の奴らは全部敵だから援軍寄こせと」いった内容の密書を仙台藩士の姉歯武之進(例の一級建築士さんの先祖)達に見つかり、4月19日宿泊先で宴会の後、女郎さんと一緒にいた所を摑まり斬首されてしまいました。この後奥羽越列藩同盟が形成され(会津藩が白河城を占領した事もあり)助命嘆願の連盟から軍事同盟へと変化していきます。そして北関東の旧幕府残党軍との戦いが、東北への出入り口の一つ、白河口への戦いへと続いていく事になります。
「白河小峰城」
画像
日本海側の越後口の官軍VS長岡藩。中央部の白河口の官軍VS会津・奥羽諸藩・幕府残党軍(新撰組等)との戦いで官軍側が優勢になってくると、太平洋側の平潟口へ戦力を回す余裕が出来た。慶応4年(1868年)=明治元年6月16日に薩摩(鹿児島県鹿児島市)、佐土原(宮崎県宮崎市)、大村(長崎県大村市)の三藩からなる官軍1,000人が、「三邦丸」(坂本竜馬とお龍が行なった日本初の新婚旅行で乗った船)、「富士山丸(鳥羽伏見の戦いで生き残った新選組残存部隊を大阪から江戸へ運んだ船。船内で亡くなった隊士・山崎蒸を日本初の海軍式水葬にしたといわれている)」、「飛隼」の三艦に分乗し平潟港へ上陸。守備に就いていた仙台兵50名は、官軍側の砲撃を受けあっさり退却、仙台兵頼みの磐城平・泉藩も共に泉近くの新田宿の辺りまで退いてしまった。
平潟港・・・現在の茨城県北茨城市と福島県いわき市の県境付近にある港町。いわき市勿来町の九面(ここづら)港とは山を隔て隣り合わせになっている。江戸時代は平潟同門と呼ばれる昔のトンネルで繋がっていた。福島の棚倉藩領であったが、仙台と江戸との年貢米の中継基地でもあり、江戸幕府任命の浦役人や仙台藩の米取り扱いの役人なども行政に参加していた。又、平潟は商人や船乗り達で賑わっていたところで「洗濯屋」と呼ばれる遊郭などもあり、近在の磐城の「中の作港」や湯本宿(湯本温泉)とならび栄えていた宿でした。
画像
画像

次回Aは幕末・遊撃隊、孤軍奮闘の予定
沖縄チャンプルー博覧会
 沖縄チャンプルー博覧会

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
スポッツ様
こんにちは。フォームのズレをご指摘いただいてありがとうございました。原因は不明ですが、パソコン環境によりズレてしまっていたようです。自力解消が難しく新しいフォームを使うことにしました。前と違いさわやか系です。また是非遊びに来てください。ところで、戊辰戦争ってそんなに古い話じゃないのに知らないことだらけですよね。昔、亡くなったおばあちゃんから「この道を赤い髪の人が通ったんだよ」なんて聞いてもピンときませんでしたが詳しく調べると痕跡のようなものもまだ残っているのでしょうね。兎
本や兎
2008/01/26 16:50
本や兎様、こんにちは。新しいフォーム確認しました。柔らかさっぱり系で良い感じでした。戊辰戦争の話、御婆様から伺っていたのですね。赤い髪の人は、官軍の赤熊(しゃぐま)のかぶりものを付けていた人の事でしょう。調べてみたら、戦死者の碑とか建物跡とかがいわき市にも残っていました。ごく1部ではありますが、続きでアップしていく予定です。
スポッツ
スポッツ
2008/01/26 18:17

コメントする help

ニックネーム
本 文
沖縄チャンプルー博覧会
 沖縄チャンプルー博覧会


いわき市各種団体

サイト内ウェブ検索

磐城の戊辰戦争@官軍平潟港上陸 へたな写真も数写せば当たる?/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる