野口雨情生家(磯原)周辺と雨情の一族の話

2009年12月21日 神永喜八との親戚関係の部分訂正(雨情の父の後妻ではなく、雨情の叔母が神永喜八の後妻になった。)、芹沢鴨が亡くなってすぐに、盟友だった野口正安も後を追うように死亡等を加筆。去年12月に撮影したままお蔵入りにしていた野口雨情生家付近の写真ですが、遅ればせながらアップします。 雨情生家は雨情と先妻の高塩ヒロとの間に生まれた2人兄妹の内、家督を継いだ雅夫の子供(雨情の孫)の野口不二子さんによって管理されている茨城県指定文化財になっています。生家内部の資料館は管理費100円で入場できます。内部は原則撮影禁止です。
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雨情が少年時代に住んでいた2階立て部分
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よくわからないけど隣には野口家の親戚なのか同じ名の歯科医院が野口雨情の曾孫さんで野口量平さん経営の歯科医院
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野口雨情というと彼だけが野口家で名を馳せた様に思えますが、さにあらずで一番近い身内から行くと雨情が15歳の時に上京して居候していた伯父の「野口勝一」は茨城県県議会議長や衆議院議員(板垣退助の自由党所属で、品川弥次郎の子分格)を務めた他、漢学者、書道の大家でもあり、全国に「吉田松陰」の事を初めて紹介した人でもありました。勝一は政治活動にたずさわる為に野口家の家督を弟で雨情の父の「野口量平」に譲ります。政治活動で野口家の財産を目減りさせた償いの意味もあったのかも知れません。


さて野口家は南朝の後醍醐天皇の為に戦った忠臣「楠正成」(くすのきまさしげ)の弟で「楠正季」(くすのきまさすえ)の子孫とされています。本来、歴史では兄弟刺し違えて自害した事になっていますので、生き残っていたという前提でのお話になっています。それを聞いた水戸藩が野口家を召抱えたのが茨城県での野口家の始まりです。特に水戸光圀公(黄門様)は、明の亡命儒学者「朱 舜水」から学んだ朱子学を元に尊王思想の「水戸学」を創り、自身が始めた「大日本史」編纂の中で南朝正統派説を唱え、必然的に楠兄弟を忠臣の鏡としていたため、野口家には特に目をかけました。野口家5代目当主の妻が子を残さぬまま亡くなったために、血統を残す為に側室の「お松の方」を与えました。が、生まれた子供が光圀公にそっくりであるというのでお忍びで野口家を何度か訪ねたそうです。野口家6代目は光圀公の様に聡明で優秀な方であったとそうです。又、野口家は海がすぐ近くで眺めが素晴らしく「観海亭」と光圀公によって名づけられました。公式には、その眺めがお気に入りで観海亭に良く立ち寄ったとされています。(あくまで説ですので念の為)ちなみに現在は海際にホテルが建ち海が見えずらくなっています。
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さて海側の写真ですが、近くに小高い丘のような天妃山があり、光圀公が天紀神(媽祖とも呼ばれる中国由来の海上の守護神)を祭り、後には水戸斉昭公が弟橘媛(おとたちばなひめ、日本武尊の妻で東京湾で夫と共に船に乗っていたが荒れた海を鎮めるために海に自らを奉げた)を祭った神社がありますが、ここは「新撰組の芹沢鴨」がかって神官の娘と結婚して神官「下村継次」として過ごした場所です。雨情生家近くにすんでいた雨情の祖父とその弟「西丸帯刀」達の従兄弟にあたる「野口哲太郎正安」は、水戸藩の尊王攘夷の柱「藤田東湖」から教えを受けており、「吉田松陰」が嘉永5年(1852年)にこの地を訪れた時には雨情生家のあった場所で松陰と一晩語らっています。松陰はかっての大津浜事件を調べる為に旅の途中寄ったのです。話は芹沢鴨(下村継次)に戻りますが、かれは近所の正安の影響を受けて天狗党(水戸藩の過激な攘夷思想を持つ一派で、正安や西丸帯刀は中核に近い位置にいた)に関わりますが諸生党(水戸藩佐幕派)との勢力争いに破れ投獄されます。その後、天狗党側の巻き返しにより出所し、芹沢の姓に戻り江戸にでた後、清河八郎の浪士組(その後、壬生浪士組→新撰組)に加わります。

これは同時期、水戸藩の上京(京都行き)があったにもかかわらず、参加出来ない立場の鴨が渡りに船と浪士組みに入ったのではとも推測されます。
新撰組を結成した年の9月(文久3年)に鴨は粛清されますが、その後を追うように10月に野口正安も亡くなっています。古い同志がいなくなったのが病気の身にこたえたのでしょう。

新撰組の後の事は有名なので省きますが、新撰組局長「近藤勇」が千葉流山で斬首された時に、勇を捕らえ斬首を強硬に主張した「香川敬三」は鴨の天狗党時代の同士でした。
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近くにある「野口雨情記念館」(2階は北茨城市歴史民俗資料館)にある、雨情のご当地ソング「磯原小唄」にも天妃山の名が出てきます。雨情記念館 入場料大人300円、児童生徒・学生100円 月曜日・年末年始休館、9:00~16:00まで詳しくは℡0293-43-4160まで
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水戸の天狗党は薩摩藩と密約を交わし、「安政の大獄」(南紀派方の直弼が水戸藩から養子に行った徳川慶喜を押す一橋派との争いに端を発した弾圧)を因とした万延元年(1860年)の「桜田門外の変」で大老「井伊直弼」を殺害しましたが薩摩藩は動きませんでした。彦根藩の怒りは凄まじく直弼の警護で重症を負った者でさえ島流し、無傷だったものは駕籠かきにいたるまで打ち首、切腹をさせ水戸藩と戦争をもしかねない勢いでした。結局、安藤信正公が井伊直弼公の暗殺による死を無かった事にしたり、会津の「松平容保」公が間に入り取り成したりして抑えました。容保公は、その功から政治中枢に関わる事になります。(これが、会津藩の終わりの始まりか?)


しかし、それにも懲りず水戸藩は数ヵ月後「西丸帯刀」38歳が長州の「桂小五郎」27歳と江戸湾の長州軍艦「丙辰丸」にて「成破の盟約」を結びます。ちなみに彼らの間を連絡役として動いたのが当時18歳の「伊藤博文」でした。直弼公死後は井伊直弼の後に反直弼派の下総関宿藩主「久世広周」を首席にすえ、直弼派の磐城平藩主「安藤信正」が老中として外交面や公武合体政策を推進していました。

いわき市平の松ヶ丘公園の信正像
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そして盟約に従い安藤信正を暗殺しようとした「坂下門外の変」を起こします。腕利きを警備に付けていたこともあり暗殺は未遂に終わりました。
その後、怪我を押して公務に復帰した信正ですが、水戸と手を組んでいた薩摩藩主「島津久光」に追い落とされ磐城平藩に隠居の身となりました。

さて水戸藩は、後に「天狗党の乱」において天狗党と諸生党が激突、水戸各地は焦土と化します。天狗党は幕府の応援を得た諸生党に破れ京都へ向かいます。針路上の各藩を蹴散らし大砲を引っ張りながら真冬の越後境の雪の峠越え(;゚д゚)をした後、越前で加賀藩に破れ投降、加賀藩は彼らに同情的でしたが、劣悪な環境で幽閉された後幕府の命により(でも将軍は水戸藩出身の慶喜だった・・・)死罪…………352人が死罪になり残りは島流しや水戸藩預かりとなりました。もっとも刑の執行には水戸に大きな恨みを持つ井伊家の意向が有った様ですので、ある意味、自業自得な部分があったかもしれません。

西丸帯刀は、これに加わっていなかったため、官軍優勢になって諸生党が滅びた後に天狗党残党とともに戊辰戦争最後の戦い「函館戦争」に加わります。その後北海道の開拓に関わり資産を残します。雨情が一発当てるために樺太を目指した時に、この大叔父に借金を申し込みますが雨情の性格を見抜いていた彼に断られてしまいます。
さて話が色々飛びましたが雨情にまつわる場所が生家から車で数分の場所にある「二つ島」二つですが、もう一つが小さすぎるのか良くわかりませんでした。雨情が高塩ヒロと結婚する前、磯原の芸者さんと付き合っていましたが親戚に結婚を反対され、この当りで心中騒動をおこしています。結末はわかりませんが雨情は死んではいないので、まあ大した事には為らなかったのではないかと。この二つ島は鵜の生息地でもあり、かなりの数がいます。
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ところで雨情が湯本にきた理由は何かと考えますと、その一つとして雨情の父の後妻だった人の兄雨情の叔母の旦那さんが常磐炭田北茨城地区の炭鉱を発見した(片寄平蔵より早い)常磐炭鉱の祖の一人「神永喜八」であった事。喜八と取引のあった鍵屋」という廻船問屋の娘婿が常磐炭鉱で片寄平蔵と組んで、彼の死後に炭鉱経営に携わった「加納作平」だった事が関係しているのかも知れないと自分的には思っています。
しかし、最初の頃は野口雨情の一族が歴史上の色々な事に関わっている事を知りませんでしたので驚きの連続でした。「事実は小説より奇なり」でした。φ(゚Д゚ )フムフム…

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