磐城の戊辰戦争③平潟奪還作戦・遊撃隊孤軍奮闘

2008.03.04修正 3番隊長和多田貢の出身地は岡崎藩でした。慶応4年(1868年)=明治元年の6月16日。平潟に上陸した官軍はバッテイラと呼ばれる小船で港に上陸、子供達に銭やビスケットを与えて村人達を安心させた。やがて平潟の村人も官軍に協力して荷物の陸揚げが始まりました。その頃、平潟にあった仙台藩2小隊(約100名)は官軍の勢いに圧倒され手も出せない状態でした。隊長の大江文左衛門は湯長谷藩に伝令を出し、その知らせは、湯長谷藩館から数キロ程の湯本温泉で休養を取っていた遊撃隊にも伝わりました。遊撃隊は騎馬の偵察を出し平潟の状況を確認。夜の10時頃、遊撃隊全軍100名が泉の近く新田峠に到達した所で平潟から逃げてきた仙台兵と磐城平兵と泉兵に遭遇した。 今は歩く人も少ない旧道の峠道
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仙台兵は県境近くの関田宿(いわき市勿来町)にいた平・泉の兵50人が駆けつけてきたので総勢150人で官軍迎撃を試みたが、圧倒的な火力の差に敗れて十数キロ程離れた新田峠まで敗走してきたのでした。その夜は峠に野営して、翌日17日、(新暦でいえば8月5日の夏真っ盛り)明け方平潟を目指した。総勢250人となった平潟奪還軍は、仙台兵は海沿い、平・泉の兵は山沿いを遊撃隊は植田宿から関田、勿来の関と向かっていった。遊撃隊は二手に別れ前軍は人見勝太郎、後軍は林忠嵩が指揮を執った。人見勝太郎の部隊と友軍は勿来の山へ入って勿来の関北側を通り勿来の山南の端に出ました。

勿来の関は以前紹介したので省きますが、この戦いの時代には「勿来切り通し」と呼ばれる茨城の神岡宿と磐城の関田宿をむすぶ古道がありました。現在は明治30年に開通した常磐線により寸断されてしまいたが、現在でも、その1部は残り、勿来の松川磯から栗野を通り平潟の直前に出る事が出来ます。慶長年間(1596~1615)・・[秀吉死去・江戸幕府開府・豊臣家滅亡の頃]に新町の豪商「篠原和泉」が家業の効率をあげるために、山頂付近に洞門をつくりました。しかし、洞門が狭すぎ刀・槍がつかえる事から承応元年(1653)・・[近松門左衛門・パッヘルベルのカノンを作曲したヨハン・パッヘルベルら生誕の年w]に福田の庄屋「酒井平左衛門が藩の許可を得て切り通しとしました。平藩主も参勤交代の折に使用した様です。場所は勿来海岸の松川磯の下り方面バス停近くに標識が立っていますので、そこから入り
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民宿の脇を通り坂を上っていきます。
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頂上付近
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説明板があります。
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ちなみに勿来側へ少し戻るとこんな景色が見えます。
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頂上を少し過ぎると住宅地そして古道を分断している常磐線があります。この右手が本来は勿来の関から下ってきた道につながり住宅地を抜け海側へ下ると九面港と平潟付近にでます。遊撃隊もほぼ、そのコースを辿って平潟港と洞門を見渡せる位置に布陣しました。
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九面港入り口から茨城県側へ少し進むと左折、そこには今は切り通しになっている平潟洞門跡があります。
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左手の車の出てくる位置で左折
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平潟洞門跡と洞門の碑
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この洞門右手の山上を港に向かい進むと今はコンクリートで固められ山肌の位置に出ます。当時は港道路のすぐ下は海になって船着場になっていました。又コンクリート擁壁部分から海の部分までせり出しておりその下を横に抜ける黒浦洞門がありました。(車が止まっている位置は海になっていました。)
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話と離れますが、平潟港卸市場のあたりもかって海でした。魚はカワハギとホウボウ(足状胸鰭と羽根のような鰭を持つ魚)
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市場の裏には勿来側と平潟側を隔てている鵜の子岬があり、その下にもかって干潮時に使われていた洞門がありました。
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勿来側
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山上より眼下の敵に射撃を開始しようとした矢先に八幡山の物見に発見され、眼下の官軍に気づかれて双方激しい銃撃戦となります。ちなみに当時、使用されていた小銃も佐幕派と官軍では飛距離・命中率に差が大分あり官軍が質・量とも圧倒していました。(仙台藩はともかく磐城平藩は借金だらけで新装備にお金を回す余裕はありませんでした。)お互いに死角に入り攻撃しづらいため勝太郎は隊を平地に下ろして戦いますが官軍は物量にまかせた強力な射撃を浴びせては洞門の奥に潜む作戦を取り、攻め倦みます。そして怖気づいた友軍の仙台兵はまたも逃走してしまいました。さらに港の戦艦「富士山丸」が動きはじめ砲撃を始めました。強力な銃撃と艦砲射撃を受け、勝太郎らの前軍は撤退を余儀なくされます。こうして、官軍は平潟洞門を出て関田方面へ進軍を開始しました。
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そのころ後軍の林忠嵩は友軍の仙台兵達と増援の兵達を合わせて500名程になっていました。やがて官軍の先鋒と接触。官軍と佐幕派の兵達は松林の中に散開して銃撃戦となりました。敵の後続が来る前にカタをつけようと遊撃隊が白兵戦を挑みますが友軍の仙台兵達は動かず失敗。やがて富士山丸が沖合いに現れ砲撃を加え始めます。すさまじい砲撃がはじまり土砂を吹き飛ばし大穴があき、松の木も砕けて破片がそそぎ始めました。すると遊撃隊の数十名を残し仙台兵達は逃走してしまいました。仙台兵達は当時「ドン五里」と呼ばれ大砲が一発響くと5里(20km)逃走すると言われる程逃げ足が速い事で有名で友軍の兵士に嘲られていました。もっとも磐城の兵も一緒に逃走したので彼らだけを責められませんが・・・・。
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さて、官軍の戦艦「富士山丸」ですが元は幕府海軍「榎本艦隊」の所属で官軍に対する謀反の意思が無い事を見せるため4月に引き渡された4隻の内の1隻でした。幕府海軍時代は慶応2年(1866年)長州第2次征伐で「高杉晋作」の丙寅の攻撃を受けたり、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで生き残った新選組の残存兵を運んだりしています。磐城の戦いの後は本土防衛の任務に就き榎本艦隊が江戸を脱出する際に嵐ではぐれた「咸臨丸」(教科書に出てくるアレです)の乗員が降伏しようとしていた所を挑発して惨殺、死体を海中に投棄して咸臨丸を曳航していきました。その死体が腐乱して地元の人が困っていた所、官軍のお咎めをおそれず回収して弔い名をあげたのが「清水の次郎長」でした。後に元平藩士の「天田五郎」が彼の所に養子になり書いた本が講談師によって練り上げられ清水次郎長の物語となります。
天田五郎こと後の天田愚庵(いわき市松ヶ丘公園)
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さて、林忠嵩らを苦しめたこの船の発注者は「安藤信正」でした。凹○コテッ
老中時代の外国船の脅威、特に対馬を占拠したロシア船をイギリス船に追い払ってもらった事件で自前の戦艦の必要性を感じアメリカに発注していたのでした。南北戦争や薩南戦争のイギリスから横槍で建造が遅れ日本に来たのはその5年後で、信正はすでに追放されていました。

富士山丸の砲撃と仙台兵達の逃走により死を覚悟し敵に突撃しようとしていた矢先、奇跡がおきました。富士山丸に突如砲弾が着弾、船体をゆるがしました。その一撃は船の機関部を損傷させました。遊撃隊より北の海岸に平藩士「山田省吾」(42歳)が4ポンド砲と共に残っていたのです。彼は味方の不甲斐無さに憤りただ一人海岸に残り機を窺っていたのでした。続いて彼が放った第2弾は富士山丸に積んであった砲弾に誘爆しました。富士山丸は耐え切れず平潟へ戻っていきました。
写真はイメージです。
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こうして危機を脱した遊撃隊は敵の猛烈な射撃の中、撤収しましたが、この時3番隊長でしんがりを務めた岡山岡崎藩出身の元藩医「和多田貢」が戦死しています。こうして磐城側の平潟奪還作戦は失敗に終わり戦いは植田・泉・新田坂へと続きます。

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この記事へのコメント

shinochi
2019年10月09日 17:46
初めまして

切通しについて調べております、突然で申し訳ございません。
私は篠原和泉の子孫になります、イズミという方がおられて何かをしたと聞いてましたが。
何から調べて良いのか、失礼で大変申し訳ございませんが何か情報がございましたらお聞きしたいと思いまして。
何で一般の先祖がそんなことをしたのか、理由は何だったのか等考える事が大変ありまして、失礼かと思いましたが文献や史跡など調べたことがなく、この記事を見てしまいご無礼承知でメッセージさせて頂きました。

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