幕末の麻布に散った日独友好の恩人ヒュースケン

6月の東京史跡巡りの記事が中途半端になっていましたので、その続きです。
前回はここで終わっていました。

さて今回は以前の記事でも少し取り上げたヒュースケンの史跡巡りです。
撮影機材はキャノンEOS KissX3+タムロンAF18-270mm (Model B003)
画像はクリックすると大き目の画像が見れます。

①ヒュースケンの墓

今から150年程前の幕末の万延元年十二月五日(1861年1月15日)に麻布の中ノ橋付近にて暗殺されたのが、アメリカ公使ハリスの通訳・ヘンリー(洗礼名か戸籍名がヘンリック)・ヒュースケンであった。
万延元年と言うと3月に大老・井伊直弼が暗殺され、安藤信正・久世広周政権に変わり、10月には公武合体の和宮降嫁勅許が出た年。すなわち尊皇攘夷と公武合体と言う、攘夷派と幕府のせめぎ合いの真っ最中だった時期でした。
ヒュースケン暗殺は攘夷と言う名のテロが外国人に向いた最初の大きな事件でもあった訳です。


さて、この事件は一説によれば、当時ヒュースケンが関っていた日普修好通商条約のプロイセン側の責任者オイレンブルク伯爵(後のビスマルク内閣内相、日本初のクリスマスツリーを飾った人物)暗殺を狙うグループが目的を果たせず、替わりに暗殺したのだとも言われています。

ヒュースケンという人物は、母を残しオランダからアメリカに移民し、ハリスに拾われ、アメリカ公使付通訳として日本に渡ってきた人物でした。
オランダ語、英語に加えフランス語を解し、オランダ語にやや似ているドイツ語もあやつれたヒュースケンは、アメリカ公使ばかりでなく、当時日本に駐在していた各国の公使の力となり、又通訳ばかりでなく様々な手助けをしておりその人柄から誰からも好かれており、彼の死は当事者ばかりでなく多くの人々に衝撃を与えました。

そのヒュースケンの墓は港区の史跡になっているが、地元でも知らない人が多いらしく、幕末の外交史を語るさい欠かせない人物なのに勿体無い気がする。

墓所がある麻布 光林寺
画像
寺の道路側に地図があるが墓の位置は少々分かり辛く、お寺の奥様に聞いて判明した。
画像

画像


寺の右側、隣の建物に隣接している細い路地を進み、
画像
前島さんのお墓から右折、奥の方へ進むと、他の墓とは違った形をしているので分かると思う。墓はアパートに隣接した区画にある。運が良ければ、アパートのオバちゃんが窓を開けて色々教えてくれる(というか我々がうさんくさくて気になったのか?)
画像



ヒュースケンの墓には出身地オランダの酒瓶(手前ワインボトルだけは日本の赤ワインのメルシャン・ボンマルシェだが、ヒュースケンの末期の酒がワインだったからかも知れない。真ん中の白い陶器ボトルはヤングジェネバー、奥の茶色いボトルがボルスジェネバーか?)と、この写真では分かり辛いが、手前と真ん中の間に何故か鳥の剥製が飾ってある。
誰か剥製の謂れを知っていたら教えて頂きたい。
事件の4年後には日本に観光で訪れていたドイツ人シュリーマンもヒュースケンの墓参りをしています。

平成6年3月22日、ヒュースケンが日独友好に尽くした事、オランダ出身であった事、アメリカ公使ハリスの通訳かつ良き相棒であった事等から、独蘭米の3ヶ国の大使達が墓参に訪れた。
光林寺住職、上智大学イエズス会ベルギー(ベルギー、オランダ=ネーデルランド、ルクセンブルクの三国は合せてベネルクスと呼ばれている近しい国)人神父の祈りが捧げられ3大使による献花とオランダジンのジェネバー(ジンの原型)酒が墓石にかけられた。
画像

墓にはヘンリック・ヒュースケンの文字が刻まれている。下はアメリカ通訳の肩書きか?
画像


ところで、ヒュースケンの墓の向かいにも、暗殺された通訳者の墓がある。
ヒュースケン暗殺の約一年前の安政七年一月七日(1860年1月29日)に攘夷志士に斬り殺されたボーイ伝吉の墓である。伝吉は、イギリス公使オールコック付きの日本人通訳者であった。

彼はジョン万次郎と同じような境遇の持ち主であったが、人生の結末は違っていた。
紀州の船乗りであった時に伝吉は、海難事故で異人に救助されハワイ、中国、琉球、アメリカと彷徨い、再び中国へ渡り、イギリス公使オールコック通訳としてイギリス国籍を取得して日本へ戻った。
残念ながら日頃から揉め事を起したり素行に問題があった事、女衒紛いの事をして恨みを買っていた事等で日本に舞い戻って僅か7ヵ月程で切り殺される事となった。
画像


②ヒュースケン最後の交渉・日普修好通商条約

万延元年七月十九日(1860年9月4日)、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ・ポルトガルの欧米各国が日本との条約を結ぶ中、ヨーロッパの新興国・プロイセン(英語読みプロシャ)も又、日本と条約を結ぶべく江戸湾へ姿を現した。
だが、プロイセンから日本への航海の途中、小型艦一隻を嵐で失っており、それは、この後に起こる数々の災いの先触れであったと言えよう。

プロイセン(首都ベルリン)はこの10年程後、1871年(奇しくも条約締結に関った安藤信正公の亡くなった年であった)に鉄血宰相ビスマルクの下、フランスを破りドイツ帝国(現在のドイツとは違い、ポーランドをまたがりロシア近くまでの領土を持っていた)を築き上げた国である。
日普修好通商条約は、来年の日独友好150周年記念の起点である。ドイツの前身であるプロイセン公国は、当時北ドイツの連邦諸国を牽引していた新興国で、今回の日本との交渉にはドイツ関税同盟やハンザ同盟等のドイツ商人の期待を背負い、プロイセン以外の小国家群の条約批准をも請け負っていた。

北ドイツに対し、南ドイツに影響力のあったのが隣国オーストリアのハプスブルク家であった。
同時代のドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(又はジーボルト)、狂王ルートヴィヒ2世 (バイエルン国王で、ドイツ統一時プロイセンに従う代わりに得た莫大なお金を全て芸術・城作りにつぎ込んだため暗殺された)等は南ドイツの人間である。

プロイセン使節団が訪日した際の日本側外交の総責任者と言えるのが老中筆頭格の安藤対馬守信正公であった。信正公は、前任者・井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された後の困難な幕府の舵取りを久世大和守広周公と共に担っていた。
信正公
画像

攘夷運動の激化、公武合体政策の遂行もあり、本来ならば米英仏露に続いて蘭(オランダ)で条約を打ち切る筈であったが、昔ポルトガルを追い払い日本との通商を独り占めした負い目もあったのかオランダの仲介により、更に日葡(日本、ポルトガル)修好通商条約が調印する事になってしまいました。

条約を結ぶのも、ここらへんが限界であり信正公はベルギーやスイス等との条約は丁寧かつ断固として断った。
当然ながら、プロイセンとの条約締結はありえない話で、使節団責任者オイレンブルク伯爵(後のビスマルク内閣内相)との会談も決裂する筈であった。
しかしヒュースケンの粘り強い交渉により決裂は避けられ話し合いはその後も続けられる事になりました。
その後、ヒュースケン上司のハリスが安藤信正公に開港延期を条件にプロイセンとの条約締結を求め、信正公もそれに応じました。
それで話がまとまるかに思われましたが、条約がプロイセン一国のみでなく他の連邦諸国、関税同盟やメクレンブルク・ハンザ諸都市のものが含まれている事が発覚、安藤信正公と口論になった担当外国奉行・堀 利煕が自決(万延元年十一月六日)、これがヒュースケン暗殺の一ヶ月前の出来事。
意見が違ったとはいえ、堀 利煕の死は安藤信正公も惜しみ、家督は堀の息子に継がせる様に計らった。

そして堀の死後まもなく(万延元年十一月十三日)、プロイセンのみであるが条約を結ぶ事が決定。
しかしヒュースケン暗殺の日、すなわち万延元年十二月五日(1861年1月15日)日本側が再び煮え切らない態度を取った事(幕府側が会談に遅刻したのも火を注いだ)からオイレンブルク伯爵が激怒し会談は不穏な雰囲気となったらしい。
ヒュースケンがプロイセン使節団と夕食を摂り雑談後に赤羽接遇所を出たのが午後9時ごろ、そして中ノ橋や近辺に潜む賊がヒュースケンの警護の侍達に斬りかかり彼らを退けた後にヒュースケンに襲い掛かりました。
乗馬していたヒュースケンはピストルを抜く間も無く両脇腹等を斬られ致命傷を負い180メートル程先で落馬、賊は即座に退散しました。

ヒュースケンは9時半~10時半の間の時間帯にアメリカ公使館・善福寺に運び込まれた様です。
この知らせは、オイレンブルク公の下に届き、プロイセン医師フォン・ルチウスを含む武装した6名が急行、幕府が手配した日本人医師(久留米藩有馬家が仲介)達と治療に当りました。
更にイギリス公使オールコックが医師マイバーグを派遣しましたが、内臓に達する傷があり治療の甲斐も無く、医師たちとフランス公使館のジラール神父が見守るなか、ワインを飲んだ後に息を引き取った。
万延元年十二月六日(1861年1月16日)午前零時30分永眠。享年29歳。故郷オランダに母一人を残しての無念の死であった。
その晩、彼を息子の様に慈しんでいたハリスのすすり泣きがいつまでも続いたと言う。又、その後数ヶ月に渡りハリスは酒びたりと不眠の日が続いたと言う。
オイレンブルク公も一晩眠れず、一夜明けた朝に善福寺に到着、ヒュースケンの死を確認した。
真言宗麻布善福寺
画像

この付近を六本木ヒルズから撮影したもの。
画像


境内の大きな木の下にある公使ハリスの記念碑
画像


本堂は太平洋戦争の空襲で焼けたらしく、現在のものは江戸期の建物で、東本願寺→東本願寺別院→善福寺の順で昭和36年に移設されたものです。
裏手に福沢諭吉さんの墓があったらしいのですが、この時点では知りませんでした。
画像

ヒュースケンの葬儀は2日後の万延元年十二月八日(1861年1月18日)の午後一時に光林寺にて行われた。
善福寺で、遺体はアメリカ国旗に包まれ、オイレンブルク公が部下に作らせた棺に納められ、オランダ水兵8名により運ばれた。その行列は大きなものだったらしく、先頭には日本の外国奉行5名と大勢の従者・日本駐在の列強全ての旗が掲げられ、プロイセン軍楽隊・役人、ヒュースケンの棺、喪主ハリスとオイレンブルク公、オランダ総領事デ・ウィツト、イギリス公使オールコック、フランス総領事ベルクール他、各国領事と館員、プロイセン士官から兵士・船員、そしてオランダ水兵の一隊が続いた。僧侶と神父による祈りが捧げられ双方による儀式が行われ葬儀は終わりました。

その後、ヒュースケンの死も影響したのか、条約は万延元年十二月十三日調印(実は日本語記述では仮条約と書かれており、幕府側も朝廷向けにアリバイ作りをしていた気配がある)されました。
本条約の批准は後日に残し、オイレンブルク公のプロイセン艦隊は万延元年十二月二十一日(1861年1月31日)横浜を出航し帰国の途についた。

その数日前、光林寺のヒュースケンの墓の前に佇むハリスとオイレンブルク公の姿があった。
ハリスにとっては息子の様な存在、オイレンブルクにとっては命と引き換えにした形で条約を締結させてくれたかけがえの無い友人であったヒュースケン。
その日は小雨と雪が降っていたと言うが、二人の胸中には、それをも忘れる万感の思いが駆け巡ったであろう。


③沖田総司と清河八郎、ヒュースケンを繋ぐ不思議な直線。

暗殺事件のあった場所は、以前の記事で紹介した沖田総司墓所から1km程離れた場所であり、この事件の2年程後の文久三年に沖田達試衛館メンバーが加わった浪士組を京都に連れて行った清河八郎が黒幕と言われている。

ところで幕府は久留米藩有馬家上屋敷(江戸の水天宮は元々はこの屋敷内に在ったようです)に助けを求め御殿医・山下甫文が弟子を派遣、ヒュースケンの治療に当たらせました。
実は、久留米藩有馬家は、安藤家の現在の御当主の祖父(安藤家へ養子)の実家(余談ですが安藤家御当主の大伯父が有馬記念の名の元になった人物らしいです)でした。

暗殺現場付近 中ノ橋 撮影場所背後付近が久留米藩有馬家上屋敷跡
画像

この道路の向こう側が暗殺現場。
画像

同じ年、文久三年四月には清河は、中ノ橋から近い一ノ橋にて佐々木只三郎(会津出身で新撰組を会津藩に紹介したとも言われる。坂本龍馬達の暗殺を行ったと言われる人物)により暗殺されている。
ヒュースケン殺害現場から500メートル程の場所で清河八郎が暗殺されたのも不思議なら、沖田総司墓所から清河八郎、ヒュースケン暗殺現場を繋ぐと大体一直線になるのも何か運命を感じてしまう。

一ノ橋付近
画像


ちなみにヒュースケンの墓がある麻布光林寺には、坂本龍馬義弟の菅野覚兵衛(千屋寅之助)の墓もある。残念ながら場所が分かりませんでした。

④赤羽接遇所 
赤羽接遇所は外国人用の宿泊施設であり、プロイセン使節団(北ドイツ)とシーボルト(南ドイツ出身)が滞在した場所でもある。
現在は飯倉公園となった場所周辺には大使館も多く存在し、この公園では外国人親子が遊ぶ姿が見られる。
又、この場所はプロイセン使節団の責任者オイレンブルク伯爵により日本で始めてクリスマスツリーが飾られた所である。
*クリスマスツリーの発祥の地はドイツの学園都市フライブルクであると言う。イギリスではヴィクトリア女王(彼女自身もドイツ系の血を引く)がドイツ出身の夫のために飾ったのが初めて。アメリカ合衆国にはドイツ人移民によって広がった。

シーボルトは日本を追放されていたが、晩年幕府の相談役として日本を再び訪れ、娘の稲と再会しており、稲の弟達であるシーボルト兄弟はその後も彼女の面倒を見ている。

シーボルトは幕府の相談役なので当時の最高責任者・安藤信正公とも会談している(文久元年六月三日)。
シーボルトを招聘したのが信正公だとして(真偽は不明だが)これが後に坂下門外の変を起した理由の一端とされている(実際には、井伊直弼公・安藤信正公によって朝廷よりの勅書を水戸藩が返還させられた事が最大の要因と思われる)。

その会談の前にシーボルトが研ぎに出したサーベルが折れており、これを不吉として息子が外出を諌めたがシーボルトは構わず会談に出向き何事も起こらず済んだ・・・・のであるが半年後に坂下門外の変が起きた所を見るとこれは安藤信正公の受難を暗示していたのかもしれない。
赤羽接遇所跡=飯倉公園
画像

公園の説明板
画像

画像

やたら人懐こい公園のスズメ。
画像



ヒュースケンの墓の酒瓶の写真を改めて見ると、ブログmemehanaのみぃ様より聞いたクローバーの和名の由来を思い出す。
クローバーの和名シロツメクサは、この事件の15年程前に付けられた。オランダから届いた酒瓶を梱包用緩衝材として詰められていたのがクローバーだった事に由来する。
ヒュースケンには日本人妻との間に出来た可愛らしい男児がいた。母子の写真はオランダ海事博物館に現存するらしいが、彼らのその後は分からないと言う。
四つ葉のクローバーを手に入れると幸運が訪れると言うが、ヒュースケンの息子は幸せを手に入れる事は出来たのだろうか・・。

参考史料

港区立港郷土資料館発行の「江戸の外国公使館」は、当時の主要人物や警護の写真や絵及び史料等が満載してあり、幕末の外交事情を知りたい方には必携の一冊。
その他、古本又は図書館で探す事になるでしょうが、「幕末外交談 1」平凡社、「ジーボルト最後の日本旅行」平凡社、「江戸・東京の中のドイツ」講談社学術文庫、「いわき市史2巻・近世」、「幕末異人殺傷録」角川書店


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 12

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた

この記事へのコメント

みぃ
2010年09月29日 10:53
こんにちは~スポッツさん♪
ヒュースケンさん、替わりに暗殺されたのなら
なんてお気の毒なのでしょう…。
それにそれだけの外国語を操り、
才能に長けてる方の暗殺は、
可なりな衝撃でしたでしょうね。

白い陶器と茶のボトルはいつの物でしょうか?
アンティーク調で素敵です☆
鳥のはく製…国鳥?種類も気になりますね。
そうそう、シロツメグサ…
この事件の15年前だったのですね。
ブログで紹介出来た事を思うと感慨深いです。

スズメちゃん、可愛く撮れてますね~(*'▽')/
スポッツ
2010年09月29日 17:56
みぃ様、こんばんは。
身替りになり、未来を断たれたヒュースケン、その才能・人柄からも死なせるには惜しい人物でした。
ジェネバー酒のボトルは現行品ではないかと思います。
剥製、国鳥でも無いらしく謎です。分からないと気になりますね~。

シロツメグサとオランダの酒のお話しは参考になりました♪
この頃にはかなりバテていたのでスズメちゃんには癒されました~。
スポッツ

この記事へのトラックバック